序

 

 

 

 M町はT県の南東部に位置する小さな自治体で、いわゆる田舎町だ。関東の平野にあるが、四方を背の低い山に囲まれていて、面積は大半が田畑、そこにぽつぽつと民家が散らばっている。町唯一の駅がある周囲には町役場や小中学校もあり、住民の七割以上がそこに集まって住んでいた。町全体の人口は、ここ十年で三万人ほどからゆるやかに減っていて、平成最後の夏を迎えたときには、二万人少しの数になっていた。ちょっとした名所や伝統工芸が多少あるおかげで観光業もまあまあ盛んで、駅周辺の中心市街地は、長期休暇のときなどは観光客の姿が見られる。

 落合酒造店は、ちょうどその中心市街地の中にあった。江戸時代後期から経営の続く大手老舗酒造店だ。厳密にいうと、とある商人がこの地で酒屋を始めたのが豊臣秀吉存命の頃の江戸時代で、それが酒造店のおおもととなり、落合酒造店はそこから派生した分家の継承店舗という経過があるので、創業は大正時代になる。酒好きであれば知らぬ者はいない、高い人気と厚い信頼を何十年も何百年も勝ち得ている有名な酒蔵で、新酒鑑評会などでも栄えある入賞を何度も果たしている。もし酒好きでなくても、その名を一度は耳にしたことがあるような銘柄を、いくつも誇り持っている。

 全国に何軒か支部はあるものの、やはり本店が最も繁盛しており、建物の面構えも立派だ。少子高齢化が着実に進むこの田舎町の、数少ない観光名所のうちの一つでもあり、大型連休には観光客でごった返すほどのものだった。地元の小学校では、毎年社会科見学の授業で訪れることになっており、かつては朔太郎も、自分の家を見学するという奇妙奇天烈な体験をした。

 落合朔太郎(さくたろう)は、現在の落合酒造店の杜氏(とうじ)の長男である。

 物心ついたときから、自分の父親は「親方」と呼ばれ、町中の尊敬を集めていた。息子に朔太郎などというたいそうな名前を与えたのもこの父で、平成の時代に馴染まないこの名も、町民からしてみれば「あの親方がおどめにくれた名じゃあ、へでなし言ったらだめだべぇ」とのことらしかった。朔太郎がどんなに自分の名を好きになれない表情をしていても、そう言うのである。

 現在、生家で落合の姓を名乗っているのは四人で、杜氏である落合の父親と、その妻、そして、朔太郎と操(みさお)の兄弟二人だ。祖父母は亡くなったばかりだ。

 一家は、酒造店として観光用にも一般開放している建物から奥に繋がった、平屋の大屋敷に住んでいる。築何百年になるのか正確な数字は不明だが、店同様、こちらも代々落合家が使っているものなので、相当古くなるはずだ。歴史ある建物を平成の今も依然として守り続けていられるのは、何度も行われてきた改築を任せられてきた建築家や、屋敷に勤めている蔵人や技師の力量のおかげなのだろう。庭師を始め、多くの優秀な人材がここで働いている。

 父は杜氏の仕事、母親は来客の接待等で、自宅のほうの屋敷で姿を見ることは、ほぼなかった。乳母のような役目を任された女性が一人いるので、幼い頃から、兄弟の母親の役目は彼女が引き受けていたのだ。彼女は、長男が大学生、次男が高校生にまで育った現在も残ってはいるが、次男の操が大学に上がるのを見届けたら、退職する予定でいた。

 そんな生い立ちなので、朔太郎は、乳母の宇賀神のほうが自分の母のような気さえしていた。弟の操と比べると、朔太郎はまだ実母や実父と関わっているほうだが、それでもだ。だから、小学校の授業参観で血の繋がった両親が駆けつけてきている同級生らを見ると、いつも胸の底がうじうじするような、苦く切ない気持ちになっていた。

 しかしまあ、そんな愛らしい甘えも幼い頃までで、成長するにつれ、違和感のほうが膨張していった。

 朔太郎は「長男だから」というだけの理由で、言葉もまだわからない頃から蔵元を継ぐよう言われていた。親方の立派な後継ぎとして知的に勇敢に育ち、堂々とこの酒蔵を継承する役目が与えられていた。生まれた瞬間から。

 中学生になり、弟も同様に中学校へ通うようになると、なぜ他の生徒は放課後もずっと遊べるのに自分だけ帰宅を強いられるのか、なぜ弟は言われないのに自分は「しっかりしろ」「ちゃんと勉強しろ」と言われ続けるのか、甚だ疑問になってきた。小学生の頃は、教師やよくわかってもいない学友から「落合くんちは蔵元さんだから特別」「朔ちゃんは次の親方さんだから」と、妙な特別扱いをされることを心地良く思っていたこともあった。しかし、自我の芽生えとともに、それは違和感と疑問へ変わっていった。

 隣の市の男子高等学校を卒業したあと、両親の猛反対を押し切って東京の大学へ行ったのも、その違和感と疑問から生じた反発心が原因だった。両親、特に母親は強く、朔太郎が醸造学科のある農業大学へ進学することを望んでいた。そこを卒業し、いずれ蔵元を継ぐことを期待していたのだ。だが朔太郎にその気はなく、勝手に田舎の屋敷を出て東京にアパートを借りて、教育学部の数学学科という杜氏からはほど遠いところへ進学した。

 笑ってくれたのは、弟の操のみだった。朔太郎と同じ高校に通学中だった操は、朔太郎の勝手な判断ににやりと笑って、

「兄さん、そんな行動力どこに隠してたの」

 と、からかった。以来、朔太郎は、正月と夏休みくらいしか田舎に帰らない、逃亡に似た学生生活を送っていた。

 弟、操は、昔から朔太郎にとって、唯一といえる心の拠り所だった。朔太郎とは性格も容姿もまるで似ていないが、年齢がふたつしか離れていないうえ、学校の友人と気軽に出かけることが許されない環境下での、たった一人の友だった。朔太郎の生きる複雑な状況を全て知っているし、そのうえで気が合い、親身だった。愉快な冗談も、いたずらも、両親の愚痴も、学校であったことの悩みも、全て操に話した。

 学校で、

「あの人が、そう?」

「次の親方になる人?」

 と、こそこそ噂話をされて傷付いたり、「親方の息子」「朔坊ちゃん」と揶揄されてべそをかいたり、されたくない特別扱いに辟易した日も、家に帰れば操がいると思えば、たいていのことは乗り切ることができた。朔太郎の操り人形のような人生の中で、操だけには色がついていた。

 

 兄弟は、平成最後の夏を迎えようとしていた。

 

 

 

    一

 

 

 

 幼い頃、電車の窓の外を走り去る風景を、一生懸命に目で追っていたのを思い出していた。

 座席に膝立ちになって窓ガラスに鼻の先を押し付けて、自分の息で曇る景色を、それでもずっと眺めていた。人の顔さえ認識できないような速さで流れる外の世界に、そういえば興味が尽きないでいたのだ、あの頃は。

 今となっては、電車に揺られている時間など退屈でしかなく、見るものといえば手元のスマートフォンか吊革広告くらいだというのに、純粋で残酷で浅はかで未熟だった当時の自分には、自分が生きている世界が夢と希望できらきら輝いて見えていたのだった。そのきらめきから一瞬たりとも目が離せなかったのだ。この列車は自分をどこへ連れて行ってくれるのだろう、降りた先にはどんな世界が待ち受けているのだろう。あの胸の高鳴りは、きっともう二度と経験できない。

 発音のはっきりしないアナウンスが、目当ての駅名を読み上げた。朔太郎はイヤホンを外し、もたげていた首をのっそりと起こした。揺れの収まりのあと、扉が開き、閑散とした駅のホームが出迎えた。

 他に誰もいない寒々しいホームで、一人、学生服が笑った。

「おかえり、兄さん」

 操はまた背が伸びていた。

 

 

 

 最寄りの駅から車で約十五分。

 見上げた我が家は、最後に来た時の見てくれと何も変わっていなかった。

「正面の松の木が一本減ったんだ。気付いた?」

 車の扉を開けてくれながら、操が言う。

 朔太郎はぱっとしない返事をした。何も変化のないように見えた自宅だが、まあ確かに、木が一本や二本増えたり減ったりはしているのかもしれない。

 大きな蝉がそこにとまってしきりに歌っていた。東京では聞かないレベルの音量の前を、耳の穴に指を突っ込みたい気分で通り過ぎた。

「最近、松になんだか変な虫が湧くようになっちゃってさ。綿貫さんがつい昨日、抜いてくれたんだ」

 綿貫さんというのは、五年ほどここで庭師として勤務している、七十歳ほどの男性のことだ。農業関係の会社で定年まで働いたあと、退職してからも体を動かしたいという理由でこの屋敷で雇われている。元気で気の優しいおじいさんだった。

 朔太郎は下向きに微笑んだ。

「綿貫さん、元気なんだな」

「まあね。相変わらず毎朝一時間走ってるよ」

 操はにやっと笑い、車から降りた数メートル先を指差した。綿貫さんが日課から帰ってくる姿が見えた。透き通る朝日に照らされ、後光が差しているように見える。蜃気楼でぼうっとする道を果敢に走る老爺の姿は、感心するほど立派だ。

「みんな元気だよ」

 少し声色の変わった操を振り向くと、目だけで心配そうな表情を見せていた。

 みんな元気だよ、兄さん以外はね。そう言っている。

 朔太郎は顔をそらした。堂々と構える屋敷に体を向け、取って付けたように深呼吸をした。

 車をきちんと停車させてきた運転手が戻ってきた。そうして、正門の前で改めて朔太郎にこうべを垂れ、「よくご無事で戻られました、坊ちゃん。おかえりなさい」と、恭しく挨拶をした。

「俺ももう一回言おうか?」

 操がおちゃらけて、大袈裟な動きで西洋風の礼をした。

「おかえりなさいませ、坊ちゃん」

「やめろよ、操」

「あぁ、あなたこそ蔵元の後継ぎにふさわしい。素晴らしいお人だ」

「やめろって」

 登校中か、屋敷の前を通った女子高校生がこちらをじろじろと見ていた。朔太郎は早足で正門を潜る。ここの息子だと知られて騒がれる現象には、もうほとほと辟易していた。

 後に続いた操は、まだけらけら笑っていた。運転手は操にも腰から礼をし、兄弟がきちんと自宅へ戻ったのを見届けてから、持ち場へと帰って行った。

 

 

「あらあ、朔坊ちゃん!」

 宇賀神は、落合家の長い廊下を弟と歩く朔太郎の顔を見るなり、どたばたと駆け寄って来て、飼い犬の毛並みをかき回すような手つきで朔太郎の頭を撫でた。うんと背伸びをして、なんとか頭部に手が届いている状態だ。

「宇賀神さん、お久しぶりです」

 と、朔太郎。

 宇賀神はほうと微笑んだ。

「少し見ない間にまた大きくなって! お元気でした?」

「えぇ、まあ」

「長旅でしたでしょう。今日は猛暑日ですから、暑くて汗もかいたのでは? 私なんて朝から汗だくですよ。坊ちゃん、今日は大きいほうのお風呂に入ってくださいな」

「いや、別にいつものほうでいいですよ」

「すっかり大人っぽくなられましたねえ。大学のほうは順調ですか? 今は夏休みでしたっけ?」

「宇賀神さん」

 放っておいたら永遠に質問責めにしてきそうな宇賀神を、操がやんわりと止めた。

「俺の部屋に冷たいお茶持ってきてくれる? 兄さんの分」

「あら、やだ、そうだったわあ。ごめんなさいね、今お持ちしますね」

 宇賀神は来た時同様、またずんずん廊下を踏み鳴らして、嵐のように去って行った。

 廊下を行儀よく上品に、かつ静かに歩く方法を朔太郎と操に叩き込んだのは、かつての宇賀神だというのに、最近は動作がまるっきり腕っ節の強い主婦のようになってきている。

「かわいい人だよね」

 操は朗らかに言い、口角を片方上げた。

「かわいい?」

「かわいいじゃないか」

 ふっと含み笑いだけ残し、操は再び廊下を進み始めた。朔太郎も後に続く。

 弟の歩く後には、足音など起こらなかった。木の床の軋む音が、耳に心地良い。

 朔太郎は前を行く弟の背を、ぼんやりと眺めながら歩いた。着ている学生服の半袖シャツの白色と、漆黒の色をした細い髪が、まばゆいコントラストでちかちか揺れる。うなじも白く、シワ一つない半袖から伸びているほっそりとした二の腕も、血管の薄く浮き出た手の甲も、同様の穢れない色をしていた。

 呆けたようにただ廊下を進んでいると、母屋へと続く渡り廊下に出た。操のすらりとした指が、中庭の中心のほうへ伸びる。

「池にはまた鯉が増えたよ。珍しい種類みたいだけど、何て名前だったかな」

 健康的な朝日を反射する小さな池は、中庭の中心でちかちか光って見えた。その畔には、兼六園の根上の松を彷彿させるたいそうな大松が聳え立っていて、その姿は落合家の大黒柱のようにでんと、大きく太い影を作っていた。

 操は続いて、その傍に置いてある鉢植えを指差した。

「最近、盆栽にハマってるんだ」

「盆栽? 操が?」

「そう。笑っちゃうけどね」

 操は肩をすくめた。

「やってみたら楽しいんだ、これが。綿貫さんに教えてもらってる」

 弟の意外なブームの話をしているうちに、操の部屋に着いた。庭に面した障子の戸を横に滑らせると、以前来た時とそんなに変化のない部屋が現れた。

 やっと息ができたような気分になった。朔太郎は遠慮なしに座敷に座り、テーブルの横にどさっと荷物を置いた。足を伸ばし、両手を後ろについて、後頭部を後ろに反らした。はあっとため息をつく。木目のよく見える天井を見ると、とうとう「帰ってきた」気持ちになった。

「宇賀神さんにお茶って言っちゃったけど、他の飲み物が良かった? コーラとかそういうやつ」

「そんなの飲んでるところ見られたら、間違いなく殺されるだろ」

「しゅわしゅわしてるだけなのにな」

 操は愉快そうににこにこしながら、朔太郎の正面に正座した。学生服のボタンを一つ外し、ふうと息をつく。自然にすっと伸ばされた背筋は美しいほどで、不意に襖のほうを振り返った際に浮き出た首筋は、息を飲むようだった。

 弟は昔から猫背を知らない。行儀の悪い動作も、はしたない仕草も、下世話な話題も、知らない。胡坐をかいているところも、横になりながら何かを食べているところも、頬杖をついているところさえ、見たことがない。疲れないのかと、問うたことがあった。操は「うーん、疲れるとは感じないかな」と、よくわからない答えをした。

 操は、ひょっとしたら兄の朔太郎よりしっかりしているのに、たまに昔からそういった、はっきりしない答えを突然よこしてくる人だった。基本的にいつでもでんと構えていて、物事ははっきりきっちりさせたがるタイプなのだが、自分自身のことに関してはごまかしたがるような様子があった。

 秘密主義なのだろうか。朔太郎は、操のその部分がよく理解できない。

 それを除けば、彼は弟としても、家族としても、友人としても、最高の人物だと、朔太郎は常々感じていた。

 しかし、そう思っているのはどうやら兄だけではないようで、操は関わる人間をみな、一人残さず魅了してしまう人物であるようだった。同級生の異性から人気があることはわざわざ説明するまでもなく、教師からの信頼もあれば、行きつけの飲食店の店長なんかからも可愛がられているし、ちょっとすれ違った散歩中の犬にまですぐ懐かれる体質だった。

 笑顔を絶やさない、朗らかで気を配れる性格もあるのだろう。だがこの、俗に美形と言われるような外見も由来しているのだと思う。操は母親によく似ている。

 その指が今、朔太郎の目の前でひらひらした。

「おーい、兄さん」

 朔太郎は、はっとした。意識が徐々に現実に戻ってくる。

「俺の話聞いてた?」

「ごめん、何だっけ」

「どうしたの、今日いつにも増してぼーっとしてるけど」

 操はそこで言葉を止め、静かに続けた。

「無理もないか」

 

 今回の帰省は、もともと予定されていたものではなかった。

 都内の大学へ通うため生まれ育った町を飛び出して二年、年齢がちょうど二十になった日の夜に、思いもよらぬ人物から連絡があって、朔太郎は腰を抜かした。高価そうな茶封筒には、宇賀神のものだと思われる丁寧な字が、朔太郎が一人暮らしをしているマンションの部屋を宛てていて、震える手で封筒を裏返すと、送り主の名が自分の実の両親のそれだった。

 嫌な予感しかしかなった。

 玄関に突っ立ったまま封を切れば、二十歳を迎えた息子を祝う言葉すらよこさないまま、縁談を組んだから一度帰って来いとの内容が書いてあった。

 そういえば、以前にもそのような話を聞いたことがあったかもしれない。朔太郎の、両親からの手紙を握り潰した右手がぶらり、落ちる。まだ結婚がどのようなものなのかすら想像がつかないような年齢の頃に、お前の結婚相手はすでに決まっているからとか、相手は菓子作りで有名なベルギーにある老舗店の一人娘だとか、なんとか。

 朔太郎は瞬きをするのを数分忘れた。自分の身分を忘れたかった自分が、現実を突きつけられている今に吐き気を催す。

 なるほど、と、ぼうっとした。

これはもはや我が身の縁談ではない。我が家の商談だ。両親を恨む気にもなれなかった。

 

 田舎の人間社会というものは、どうしてこうも窮屈なのだろう。朔太郎はしょっちゅう考えた。広い土地に余裕のある人口密度で人が暮らしているのだから、もっと悠々自適に生きられるはずではないかと思うが、実際はそれとは正反対、ミニマムなムラ社会の中のゴシップをどれだけ把握しているかで会話が盛り上がるし、大正やら昭和やらの風習をなんの疑問も持たずにただ受け継ぐだけの、閉鎖的で保守的な社会なのだ。法がどう変わろうと、国際社会の民意がどう動こうと、この社会の末端までそれらが浸透するにはかなりのタイムラグがある。

 手元に視線を落とした朔太郎に反して、操はじっと兄の顔を見つめ続けた。

「実は俺も、今回のことはさすがに冗談だろって思ってたんだけどね、ずっと。許嫁なんて聞いたことある? この時代にさ」

「……」

「率直に聞くけど、どうするの。兄さん」

「どうもなにも」

 朔太郎は長く重いため息をついた。

「父さんも母さんも電話じゃ話聞いてくれなかったし、会ったら直接断る」

「ふうん、断るんだ」

「断るに決まっ……」

 朔太郎が顔を上げると、今度は操が目を反らした。

 朔太郎は構わず続ける。

「断らないと思ってたの?」

「さあ、兄さんはどうするんだろうなって思ってただけ」

「俺は断るよ」

「そっか」

「お前だったらどうする? 操」

 操は反らしていた目を朔太郎に戻し、呟くように「俺だったら」と言った。

「俺だったら、断らないよ」

 朔太郎は言葉が出ない。

「断らない」

 操は繰り返した。そして視線を落とし、軽く目を伏せる。

 弟のその言葉は呪いのように朔太郎の体中を蝕み、指先一つさえ動けなくした。見えない縄で、体をぐるぐるに拘束されているような気分だ。

「断らなくてどうするんだよ」

「どうするって、何が?」

「断らなかったら、会ったこともない女性と結婚して、ここを継いで死ぬまで酒造って、この町から一生出られないまま墓に埋められるんだぞ。落合家代々とか書かれた墓に」

「そうなるだろうね」

「嫌じゃないのか」と聞くつもりだった口は、その質問をなぜか声の形にしてくれなかった。朔太郎は必死の形相のまま黙って操を見つめ、テーブルの上で拳を握った。自分の爪が自分の手の平に食い込んで痛い。

 すると、操はふっと微笑み、

「そういう人生もありかな、と思っただけだよ。ごめんね兄さん。次男の俺にとっちゃあ、しょせん他人事さ」

 と、冷酷なようにも思える回答をした。

 彼は音もなく立ち上がると、朔太郎が背中を丸めて座る隣まで近付いて来て、優しい空気で膝をついて顔を覗き込んできた。

「親方になれるのは兄さんしかいないと思ってるよ」

「だからやめろって」

「朝のは冗談。今のは本気さ」

「どっちにしろやめてくれ」

「大丈夫。兄さんなら全部うまくやれるよ」

「俺は嫌だ。嫌なんだ」

「継ぐのが嫌なの? 一生この屋敷から出られないのが嫌なの? それとも、」

「それとも、何だよ」

「それとも、結婚するのが嫌なの」

 操の声は徐々に小さく細くなってきて、最後の質問を投げかけてきた頃には、ほとんど囁き声になっていた。朔太郎は少しだけ顔を上げ、弟の睫毛を見た。

 突然、操の部屋を支配した静寂が、兄弟の間の空気を変なものにする。呼吸の音さえ遠慮したい空間だった。操の手の平が畳を滑り、体重を感じさせないような音とともにそこに座った。朔太郎の胡坐と操の正座の、膝と膝が擦れるようにほんの少し触れ合った。互いに息をひそめているのがわかった。何かのタイミングを見計らっているかのように、一秒、二秒、コンマの世界で意思を数える。

 つい、朔太郎が唾を飲み込むと、その音につられるように操が目を上げた。

 時が止まる。力が抜けたように数ミリ離れた操の上下の唇から、真っ白な歯がちらと覗いたのを見た朔太郎は、わけがわからないまま背徳的な感情になった。

 操はじっと朔太郎の目を見てくる。その視線は揺れない。彼のこの、何事にも動じないような、人生何周目かのような、常に落ち着いて地に足をつけているどしりとした態度は、一体どうやって保たれているのか、一度本当に知ってみたい。頼りなさげにも見えるやわらかな彼の容姿からは、とても想像がつかないくらいの落ち着きだ。

 朔太郎は自分が先に目を反らしてしまうような予感がしていて、いっそ怖かった。

 息をつくような気持ちで発言を試みる。

「結婚するのが、嫌だ」

 ようやく言うと、操が二、三度瞬きをした。

「ここを継ぐことになるのは昔からわかってたし、この屋敷に縛られた生涯になったって、どうでもいいっていうか。都会に憧れてるわけでもないし、親が放してくれるなんて期待してないから、もう諦めてる。でも」

「……」

「嫌だ。許嫁と結婚するのは」

 だからといって、結婚したい他の誰かがいるわけでもなかった。そもそも「結婚」に幸せを見出せないでいるので、それに必要性を感じないのだ。逃げているのかもしれない。

 朔太郎にとっては、この先どこで何をすることになろうが、またこの部屋に帰って来ることができれば、またこの声に「おかえり、兄さん」と迎えてもらえれば、またこの目を、鼻を、口を、指を、足首を、うなじを、眺めることができれば、それで良かった。

 誰かと結婚をして家庭を作り、そこを「家」としてしまうのが、そこを生きがいにしてしまうのが、そこを死ぬ場所にしてしまうのが、耐えられないのだ。朔太郎にとっては、家も生も死もすでにひとつの場所にしかない。

 揺れる瞳で操を見ると、彼は変わらずじっくりと朔太郎の目を見つめ続けていた。

 一呼吸置くと操は鼻からため息し、ふっと畳に視線を落とした。

「あのさ、兄さん。俺、さっきからすっげえその、予感がしてるんだけどさ」

 操の「すっげえ」なんて砕けすぎる言葉遣いを聞いたのは初めてで、朔太郎は面食らった。

 ちょうど朔太郎と操の間に、スッと線を引くように、操が細い指を滑らせる。そうして小首を傾げ、笑う。

「越えちゃいけない線、越えようとしてない?」

「……え」

「だめだよ。ちゃんと線の内側にいなきゃ」

 するとそのとき、こんこん、とノック音がして、続いて宇賀神の優しい声が障子の向こう側から聞こえてきた。

「朔ちゃん、操ちゃん、お茶をお持ちしましたよ」

「ん。ありがとう、宇賀神さん」

 操はそう答えながら、その場に何の未練もないような軽やかさで立ち上がり、障子を開けて宇賀神を迎えた。

 朔太郎はどことなく落ち着かない気分で、視線を彷徨わせる。

 

 

 

    二

 

 

 

 翌日は猛暑だった。

 古い平屋の日本家屋を十分に冷やすには、年代物の冷房は頼りなく、朔太郎は早速、鳥肌が立つほどガンガンに効いた東京のクーラーが恋しくなってきていた。

 昼食。縁側に並んで操とそうめんを啜り、食後に宇治抹茶味のかき氷を頬張った。

 それから、お盆が近いので墓参りに行こうという話になり、兄弟は揃って「落合家代々」の墓が並ぶ墓地へ向かった。四十度近くあるのではないかと思わせるほどに暑い昼下がり、外を歩くのは容易ではなかったが、車での送迎を頼むほどの距離でもないので、二人は徒歩で行くことにした。

 くだんの墓地は、母屋の背後を守るかのように聳える裏山の、反対側の淵にあった。横に広がる田と裏山の木々の間をなぞるように歩き、反対の側まで向かう。道中、蝉の声は変わらず大きく響き、暑さをいっそう厳しいものに感じさせてきた。

 墓地に向かう途中、首の後ろの汗をハンカチで拭きながら、ふと操の視線の先を追うと、広大な田畑の向こうに、ミニチュアサイズで小学校が見えた。兄弟も通っていた学校だ。春には、校庭をぐるりと囲む桜の木々が満開になってきれいだが、夏のいま、それらは鮮やかな緑色をして風に揺られていた。これはこれで趣がある。

「小学校はまたクラスが減ったってさ」

 操が言う。

「俺たちの頃は一学年に三組あったよね。あ、兄さんの頃はもっとあったか」

「うん。五組まであった」

「今はもう二しかないって」

 過疎化が進んでいますねえ、田舎ですからしょうがないですねえ、なんて、操がふざけて言う。

「そういえば、兄さんは知らないだろうけど、最近とりせんが潰れたよ」

「え? まじ? じゃあみんな、どこで買い物してんの」

「駅の北のほうにヨークベニマルができたんだ。みんなそっちをよく使ってる。なんと百均とクリーニング屋まで入ってるんだぜ」

「うわあ。そりゃあ大人気だろうな」

「うん。先月なんて、隣にツタヤまで建ったからね。過疎化は進んでるけど、進化もしてるよ」

 操は愉快そうに笑った。

 軽トラックが一台、背後から走ってきたので、ふたりは道の端に避けて車が通り過ぎるのを待った。運転席には農協の帽子をかぶった老爺がいて、歩いていたのが落合兄弟だとわかると、窓を全開にして挨拶してきた。訛りが強すぎて、朔太郎は何を喋りかけられたのか聞き取れなかったが、操のほうは理解できたようで朗らかに笑い返していた。

 墓地に近付くと、町を横切っている線路を渡る踏切がひとつあった。渡れば森林へ続く小道があり、そこを抜けたら墓場だ。

 踏切に差しかかったとき、ちょうどかんかんと警報が鳴り響き、遮断機がゆっくりと下りてきた。兄弟は並んで立ち止まる。しばらくすると電車が通り過ぎたが、連結されて走っている車両が二両しかないため、あっという間に遮断機が上がることになった。朔太郎は普段、都内で何両もある長い列車での満員具合に慣れているため、妙な感覚になった。ここでの生活しか知らなかった頃は、これが「普通」だと思っていたのに。

 やがて目的地に到着した。ほっと一息つき、手に持っていたペットボトルのミネラルウォーターを口に含んだが、容赦なくぬるくなっていて顔をしかめた。

「誰もいないね」

 操が言った。

 背の高い木々に四方を囲まれた墓地は閑散としていて、通り抜ける風が肌に気持ち良かった。幼い頃は、ここで兄弟で「トトロごっこ」などをして遊んだものだった。木漏れ日がそよそよと揺れる様が、蝉の合唱に身を揺らす穏やかな踊りのようだった。

 石段を登り、そこから続く石畳を黙々と歩いて行くと、やがて落合家の墓石の前に出た。

 気の進まない朔太郎を置き、操は墓石の前にすっとしゃがんだ。慣れた手つきで線香に火を灯し、香炉に供え、手を合わせる。花を添える。立ち上がると朔太郎を振り向き、「さ」と促した。

「兄さん」

「面倒くさ」

「ご先祖様には礼儀を持たないと」

 咎めるような口調で言われ、朔太郎もしぶしぶ一連の動作を行った。

 線香のにおいが風に溶けていく。自分もいずれ入るのであろう墓を目の前に、朔太郎はため息をついた。

「兄さん、大学は楽しい?」

 何の脈絡もなく、操が突然聞いてきた。

 朔太郎は首を傾げた。

「楽しい……のかな。よくわかんないけど」

「よくわかんないの」

「可もなく不可もなくって感じ」

「ふうん」

 操はなぜかおかしそうに笑った。

 反対に、朔太郎はぶすっと唇を突き出した。

「ただ家から逃げたくて東京に出ただけだしなあ。やりたい勉強があって行ったわけじゃないし、友達も二人くらいしかいないし、バイトも疲れるばっかりで……、外は人が多すぎるし、アパートに一人でいるときがいちばん好きだ」

「休みの日はなにしてるの?」

「なにしてんだろ……寝てる。あー、お前がいたら東京だって楽しいのにな」

 朔太郎は真剣に言ったつもりだったが、操は吹き出して笑った。朔太郎はさらにむっとする。

「お前もこっち来ればいいよ。大学」

「東京の大学ってこと?」

 頷くと、操は腕をぐんと張って伸びをしてから、すとんと答えた。

「うーん、どうしようかなあ」

「なんで。来年から一緒に住んだら? 俺のアパートに」

「それはすごく楽しそうだけど、兄さんの華の大学生活を邪魔したくはないし」

 操は悪戯っぽい表情をした。

 朔太郎はまた弟とは真逆の、げっそりした顔をしてみせた。

「華って。どこが」

「人生の夏休みなんだろ、大学時代は」

「人生の夏休みねぇ……」

 朔太郎は空を仰いだ。太陽は西に傾き、その辺りがオレンジ色に滲み始めていて、反対側の空の端は、徐々に濃い青色に染まり出しているところだった。そのグラデーションを眺めていると、なぜか心臓が縮む思いがする。

 長期休暇のある夏は、朔太郎にとって比較的好きな季節だったが、夏の終わりの時期はどうにも苦手だった。妙に切なく、寂しくなる。落ち着いてくる太陽は死を連想させ、やって来る涼しさは死を連想させ、土に還る虫や長い眠りの準備を始める動物は、まさに死の姿だった。

 人生の夏も永遠に続けばいい。

 朔太郎は隣を盗み見た。

「操も今年三年だし、考えてるんだろ、進路。どこの大学目指してんの?」

「行けるところに行くよ。でも、就職するのもいいなと思ってるんだ」

 驚いて操を見ると、彼は思慮深い表情で遠くを眺めていた。足元に無限の選択肢が広がる弟を、羨ましく思った。

 朔太郎は少し俯いた。

「……実家のことは、隠してるんだ。大学の奴らに」

「兄さんの立場だったら、俺もそうしただろうね」

「だろ? 世襲とか許嫁なんて馬鹿馬鹿しいしきたり、恥ずかしくて説明できないし。古いんだよなあ、田舎は」

「でもそうしたら、俺は余計に東京にいないほうがいいんじゃない?」

「え」

 言葉に詰まった。

 そうではない、いやむしろ、そうだからこそ一緒に来てほしい、一緒にいてほしいということを、朔太郎は力説できなかった。実家が嫌で一日でも長く居たくなくて、両親の猛反対を押し切って身勝手に東京へ出てきたが、その「実家」に操は含まれていないということを、理論的に整然と説明するのは難しかった。

 

 

 自宅へ帰る途中、暑くて気が滅入りそうだったし、ちょうど小腹も空いてきたので、寄り道をすることにした。

 田畑の広がる方面からそれて駅の方向へ歩き進めていくと、乗用車が一台やっと通れるような窮屈さの道から、歩道を示す白線が引かれるようになり、さらに町の中心部に近付くにつれて道幅は広がっていき、観光客も訪れるようなメイン通りに行くと、ようやく二車線の道路になった。飲食店や観光客向けの土産屋や、落合酒造店の酒を販売する店舗が連なる通りに出ると、夏休みの影響もあってそこそこ人の姿が見えた。

 ガソリンスタンドのある角を曲がり、くねくねした通りをのんびり歩いていくと、やがて「かき氷やっています」と書道で書いたような行書体の字で印してあるのぼり旗が見えてきた。瓦屋根から吊るしてある小振りな看板には、「御菓子処」とある。ガラス戸には「まんぢう」「いもようかん」などと貼り紙がしてあった。そこは、兄弟行きつけの和菓子屋だった。大正時代に創業されたこの店は、築五十年ほどになる風情のある建築物を店舗として構えている、地元住民にも観光客にも人気の老舗和菓子専門店だ。店内で飲食もできるため、猛暑日には避暑地としても有能だった。

「こんにちはあ」

 入り口の引き戸を横に滑らせながら、操が言う。

 ちょっとすると、商品が陳列されているショーケースの奥にある出入り口から、「はあい」と返事をしながら人が現れて、腰に引っかけたエプロンで手を拭きながら、大きくにっこりした。

「いらっしゃい。あら」

 ここの和菓子屋の四代目店主の妻であるその女性は、訪問客の姿を確認するとぽっと頬を染めた。名は臼井という。

「落合さん。こんな暑いのによく来てくださいました」

 臼井の娘とその弟は、ちょうどそれぞれ朔太郎と操の同級生なので、昔から常連客以上に親しい仲なのだ。

「外は蒸すようですよ。こんなときにはここのかき氷を食べないと、と思って」

 気の良い操の言葉に、臼井は眉を下げて嬉しそうに笑う。

「かき氷ですね。二人前?」

「ええ」

「よろしくお願いします」

 ふたりは答え、店内の端に配置してある椅子に腰掛けた。座った目の前には、木目が丸出しの低いテーブルがあり、横には囲炉裏がある。朔太郎は、店内を懐かしい気持ちで見回しながら、冬に期間限定で販売されるいちごだいふくが惜しくなった。あれは本当に頬が落ちるほど美味しいのだ。仕方ない、今は夏だ。かき氷を食そう。

 臼井はかき氷を用意しながら、こちらに向かって話し続けた。

「今日は朔ちゃんも一緒なんですね。いつ帰ってきたの?」

「昨日です」

 朔太郎は答えた。

「東京もこんな暑さですか? もっとも、こことは人の多さが比べものにならないでしょうけど。人口密度がねえ」

「確かに東京は人が多いけど、向こうのほうがずっと涼しいですよ。どこに行っても冷房がかかってますから」

「まあまあ」

 と、臼井は店の天井にかけられて首を振っている扇風機を見上げた。

「じゃあ、きっとあんなものは東京にはないんでしょうねえ」

 かき氷ができ上がったので、二人は配膳を手伝ってテーブルに並べた。操は宇治抹茶味を注文していた。朔太郎はいちごだ。いただきますと合掌してから口をつけると、氷の刺すような冷たさが、きん、と脳天を直撃して鳥肌が立った。

 陳列の菓子らを並べ直しながら、臼井が言った。

「親方はお元気?」

 これには、普段から実家にいる操が答えてくれるものと思っていたので、朔太郎は黙った。が、いつまで経っても弟は「くー」などと言いながらかき氷を味わっているので、朔太郎が、はい、と返事をした。

「おかげさまで」

「奥様はこのあいだ見かけたけど、親方はなかなかお忙しいでしょうから」

 臼井はそれから、いつどこでどのように落合の奥方と会ったのかを詳細にしゃべり始めたが、朔太郎はあまり聞いていなかった。操はなにも気に留めず、あずきを口の中で転がして甘味を楽しんでいるが、先ほどの質問にもっとさっさと答えてやるべきだった、と朔太郎は悔いた。長男が東京でひとり暮らしをしているからといって、操が代わりに長男のように扱われるなんてことはないのだ。きっと両親にも全く会えていないのだろう。

 兄弟がかき氷を完食した頃、別の客が店に顔を出した。

「おばちゃん、お邪魔しまあす」

 のどかな声と、やわらかい鈴の音に扉が開いたことを知らされ、二人が同時に顔を向けると、まさに「はっ」という顔をした女性と目が合った。

 かぶっている大きな麦藁帽子の両端を持ち、影になっている目元から薄茶色の瞳を覗かせ、同じ色の細い髪は肩ほどの長さで揺れている。ワンピースの裾が揺れる膝小僧には大きな絆創膏が貼ってあり、どこかで転びでもしたのか、まだじんわりと出血している色を写していた。こんがり焼けた小麦色の肌は、快活で健康そうな雰囲気を、今年も変わらず携えていた。彼女のことはよく知っていた。

「操ちゃん!」

 と、大きな瞳をまんまるにして驚く。

 そして、手を挙げて軽く挨拶した操から、横に目を滑らせた。

「それにお兄さんも! 帰ってきてたんですね」

 この子に「お兄さん」と呼ばれることにはずっと抵抗があった。

 しかし、朔太郎は特に指摘はせず、のべっとした物言いで続けた。

「久しぶり、麦子さん」

「その呼び方やめてください。嫌です」

 麦子のほうはすぐに反応し、指摘した。

 彼女は操の幼馴染で、幼少期から関わりの深い、操と同い年の女の子だった。今はここから数キロと離れていない高校に通っているそうだ。

「麦子」というのは、朔太郎と操が考えた彼女の呼び名で、そのゆえんは至って簡単で「いつも麦藁帽子をかぶっているから」の一点のみだった。

 麦子の家は農家で、麦子の父親と年の離れた兄とで、米を中心に農作物を育てている。たまにそこに彼女も加わり、田に入り稼業の手伝いをすることも多いので、麦藁帽子をかぶっていることがしょっちゅうなのだ。あとは単純に、麦子自身が麦藁帽子を好きなのかもしれない。夏のみでなく秋や春や、しまいには冬の日にもかぶっていることさえある。活発な性格もあり、太陽光のもとにいることも多々なので、一年中小麦色の肌を光らせており、夏という季節のまばゆい面をそのまま具現化したような子だった。

 麦子は、へんてこなあだなに腹を立てたような表情は見せたものの、次の瞬間にはけろりとして兄弟の正面の長椅子に座った。

「こんなところで偶然だねえ。二人もかき氷を?」

「うん、いま食べたところ」

 と、操。

「麦子、どうしたの? その膝。転んだ?」

「さっき兄ちゃんの手伝いしてたら、トラクターから落ちちゃって。兄ちゃん、新潟の叔父さんから新しいトラクター買ってもらったんだよ。それもめっちゃいいやつ。結婚祝いだってさ」

「結婚?」

 朔太郎が慌てて口を挟んだ。

「結婚したの? 徹くんが?」

「結婚するの。来月。そっか、お兄さんは知らないですよね。兄ちゃん、実は、役場で税金の窓口やってるかーわいい女の子と付き合ってたんですよ。ちょうど二年前くらいからかなあ?」

 麦子は楽しそうにしゃべり続けた。

「兄ちゃんって空手やってたでしょ? 文化会館の近くの道場で。あの道場の隣に住んでる人だったみたいでして、兄ちゃんのいっこ年下なんだって。すごくかわいいの。父親が親方と同級生って言ってましたよ。その子と結婚するんだ」

 麦子は、朔太郎と操のどちらにも話しかけ、顔を交互に向けながら喋っていたため、たまに敬語が混ざる不思議な話し方になっていた。相変わらずジェットコースターみたいな子で、見ていて楽しい気持ちになれた。

「そっか、徹くん結婚するんだ。今度、俺がおめでとうって言ってたって伝えておいてくれる?」

「わー、兄ちゃん、光栄だって言って喜ぶと思います。ありがとうございます」

 麦子はそう言って微笑んだが、朔太郎はもやっとした。

「光栄って……。なにその感じ。徹くんとはただの友達じゃん。昔よく遊んだし、むしろ学校では徹くんが先輩で俺が後輩だったのに」

「それはそうだけど、でも」

 と、麦子は一瞬だけ言葉を切って、なにを当然なとでも言いたげに続けた。

「あなたは落合の長男ですよ?」

 ああ、またか。朔太郎は心の中で肩を落とした。

 いつでも同じ目線で並んでいられた、階段のなかった子どもの世界は終わったのだ。ただあの家の息子というだけで、「大人」の町民はみな、やたらと朔太郎と操のことまで崇めたがる。とりわけ朔太郎は長男で将来の親方だから、誰もが今のうちに取り入ろうとへこへこしてくるのだ。

 子どもは大人をよく見ている。大人が思っているよりも、ずっと。自分の親が、落合の家の大人にへこへこしてごまをすっている姿を実はじっくり見ていて、いざ自分が大人になったときにすぐ真似をするのだ。地元中小企業や、町で個人経営をしているような業者、また町役場に勤める者にとって、このあたりの経済や観光の要となっている落合酒造店にどのような印象を持たれるかは、きっと死活問題なのだろう。だとしても、まだ「大人」になりきれない朔太郎にとっては、それはただ痛く悔しい事実だった。

 良い友人だった麦子の兄、徹のことを思った。鼻水を垂らして遊んでいた頃は、朔太郎に対してもあんなに屈託ない笑顔を見せてくれていたが、きっといま再会したら全く違う種類の顔をされるのだろう。妻になる人は役所の公務員だと言ったか。彼女もきっと、同じ姿勢でくるはずだった。悲しかった。

 そのとき、テーブルの影でそっと膝に触れてくる手があった。操だった。麦子の前で大きな反応は見せずにいたが、すぐにわかった。慰めるみたいなあたたかい手の平だ。

「麦子、やっぱり今年も宇治抹茶味が一番美味しいよ」

 などと、涼しい顔をして話しているが、その片手では優しく兄に同情を示していた。朔太郎は泣きそうになった。

 麦子が言う。

「そういえば、兄ちゃんの奥さんの父親が親方と同級生ってことは、親方とも知り合いかもしれないね? お兄さんは知ってます? 大塚って名字の女性なんですけど」

「俺は知らない……」

 朔太郎は鼻からため息をついた。

「それに、父さんも知ってるかどうかわかんない。あの人とは、俺たちだってここ数年、まともに話してないんだから」

 麦子は眉根を寄せた。

「誰と?」

「父さんと」

「数年まともに話してない?」

「うん」

「家族なのに?」

「うん。親子なのに」

「え……一緒に住んでるんですよね?」

「あの屋敷の中でのことを言ってるなら、そうだね。一緒に住んでるね」

「それなのに全然話さないの?」

「話すどころか、見かけることもそうないよ」

 麦子はあんぐりして数秒固まったのち、操のほうを見た。

「操ちゃんも?」

 操はにっこりした。

「俺は数年なんかじゃあ済まないよ。兄さんよりもーっと関わりないんだから」

「お前、最後に父さんと喋ったの、いつ?」

 朔太郎が横から聞くと、操はうーんと唸った。

「いつだろう。覚えてないなあ」

「それは……親方は、ものすんごく忙しいってこと? ……だよね?」

 想定していなかった事態だったようで、麦子は唖然としてしばらく黙った。

 確かに、ここの町民はみな親方を尊敬するあまり、彼はきっと素晴らしい父親に違いないと最初から思い込んでいる傾向があった。地元業者も、町役場職員も、そのあたりの老人も、全員が、親方が踏ん張って酒造店を営んでいるおかげで町が黒字だと、観光地として栄えていると感謝しているのに、誰も親方の素行を知ろうとはしないのだ。多忙とその責任感の重さゆえにか、息子を始めとする身内ともまともに関わっていないという事実も、誰も知らない。

 会話を続けながら座っていると、徐々に窓の外が暗くなってきた。朔太郎と操は先にかき氷を食べ終えていたので、麦子が美味しそうにむしゃむしゃしているのを向かいから見ているという妙な光景になっていた。

 ぽつ、ぽつ、そして、ざああ、と雨が降り出す。麦子がかき氷を頬張る手を止め、窓の外を見上げた。

「らいさま来そう」

 ぽつりと言う。すると、その瞬間、本当に雷がぴしゃりと光った。次にはごろごろという重い音。まるで、誰かが空の上で巨大なフンコロガシを飼っているかのような音だった。

 そんな様子を眺めながら、朔太郎は、前回この面子でいたときのことを思い出していた。

 あれは三年前の夏のことだった。

「東京に行くんですか?」

 驚きを露わにしたその高音は、予想をしていない展開にまだついていけていなかった。あの夏はまだそこまで猛暑ではなくて、どちらかというと過ごしやすい季節だったのを覚えている。

「どうして? お兄さんは酒造店を継ぐんですよね? そのために東京へ勉強しに行くとか?」

「だから、俺はここを継ぐ気はない」

「長男なのに? そしたら操ちゃんは、」

「操は関係ない!」

「関係ある!」

 その日はひどい雷空だった。豪雨と雷鳴のせいで喋るのもままならず、落合家の母屋の縁側にいた二人は、お互い怒鳴るように話していた。

 大雨のおかげで日中の暑さは和らぎ、随分と涼しくなった。少し肌寒いくらいだ。灰色の空はまだ若干明るいが、停電の影響で薄暗い夏の夕方は、不気味な雰囲気さえあった。

 麦子は、雨でももちろん、麦藁帽子を離さない。

「それか、もしかして操ちゃんも一緒に行くんですか? 東京に」

 ここのような田舎で生まれ育つと、都会を知らない者はみな「東京」は異国のようなものと思っていた。麦子も、その地名を少し慎重に口に出している。

 朔太郎は首を横に振った。人差し指を一本立てて見せ、そして自分を指し、「俺が一人で行く」ということを伝える。麦子は顔を強張らせたまま、何かを言おうとして思い切り息を吸ったが、結局何も言わずに唇をきゅっと結んだだけだった。

 そこに、強めの雷光を一瞬連れて、席を外していた操が戻ってきた。大荒れの空模様だというのに、それを見上げて「もうじき晴れそうだね」などと、なぜか確信的に言っている。

 麦子が反応した。

「晴れるかな? こんなにらいさま鳴ってるのに」

「晴れるよ、きっとね」

 操は、普段通りにこやかな表情で襖を閉め、朔太郎の隣に正座をした。朔太郎は麦子と二人きりの空間から脱出できた安堵感に、ついほっと肩を落ち着けた。

 そうしているうちに、不思議と徐々に雨の勢いが収まり、多少話しやすくなっていった。

「何の話してたの?」

 操の問いに、麦子は、彼の仏の笑みに射撃されたかのような様子で黙り込んだ。先ほどまでの話題は避けたいようだった。

 しかし朔太郎は構わず、話題を蒸し返した。

「俺が来年から東京の大学行くことに反対された」

「え、どうして?」

 操の純粋な目が麦子に向いた。

 彼女は声を取り戻した。

「だって、お兄さんはここを継ぐでしょう」

「まあ、その可能性はなくはないけど」

「東京に行ったら、もう戻って来ない気がして」

 朔太郎は、麦子が誰の何を思って朔太郎の東京行きに憤慨しているのか、全く想像できないでいた。

 もしかして操は勘付いたのだろうか。穏やかに麦子の発言を受け止める。

「向こうでの生活が気に入ったら、そうなるかもね。麦子だって、ちょっと住んでみた場所が素敵な街だったら、ああずっとここにいたいなあ、と思うかもしれないだろ?」

「でも、お兄さんは落合の長男だよ。そんなの許されないでしょう」

「大丈夫、兄さんは帰って来るよ」

 操はまた、確信したような言い方で言った。

 操にこの話し方をされると、朔太郎は、自分がその通りに動くのを約束させられた気分になってしまう。言霊は恐ろしい。

「ほうら見て麦子、晴れてきた」

 雲間から差し始めた金の光を見て、操がにっこりした。つられて朔太郎も空を見上げたが、麦子だけは、操をまっすぐ見つめたまま動かなかった。空から興味が失せたあと、操の肩越しに麦子のその目を見てしまったとき、朔太郎はほんの少しだけ後悔した。

 

 

 

    三

 

 

 

 その日の夕餉は、朔太郎とその許嫁が顔合わせをする予定だった。

 昨日の朝早くから呼びつけたくせに、要となる行事は翌日の夜に行われるなんていう両親の勝手も、息子にとっては(不本意にも)慣れてしまったものだった。

 朔太郎はまた、操の部屋にいた。一応、この屋敷にある朔太郎の部屋は、一人暮らしを始める前と変わらぬ状態でそこにあるが、実家で自分の部屋にこもることをあまりしたくなかった。操の存在がそうさせている、ということは明白だった。

 そのうえ、操の部屋には両親始め身内の人間はほとんど誰も来ず、顔を出すとしても宇賀神くらいなので、警報から耳を塞ぎ航空機攻撃から身を庇う防空壕に守られている気持ちで、昔からここに居座ることが多々あった。

 両親は戦火か? 朔太郎は否定しない。

 夕餉は、縁談を結ぶ予定の両家のみで行われた。しかし、操は立ち入りを許されなかった。顔合わせ中はずっと弟が隣にいてくれるものと思い込んでいた朔太郎は、すっかり気落ちしてしまったが、だからといって出席しないことが許されるわけでもなかった。酷だ。朔太郎の足は重い。

 対照的に操は、自分が追い出されることは事前にわかっていたかのような様子で、また何の未練もなく静かに立ち去って行った。去り際、兄を落ち着けようと笑顔まで見せていった。

 その時間が終わるまで、相手の顔は見ないようにしようと決めていた。どうせ断るのだから、変に気を持たせてしまっては不憫だ。操のみてくれを持っているならまだしも、朔太郎にとってはおそらくいらない心配に気を揉んだが、食事を挟んで向かいに正座する姿が気にならないわけではなかった。

 向こうだって同じ状況の可能性もあるのだ。両親が勝手に決めた結婚に腹を立て、この時間が終わったら絶対に断ってやると、もしかしたら朔太郎よりもずっと気合い満々で意気込んでいるかもしれない。もしそうだったら、良き友人になれる気がした。

 ひとつ、ふたつ、質問が投げかけられ、彼女が小声で答える。高く細い声で、洗練された上品な言葉遣いで、膝の上で組み合わせた白い指先をときおり動かしながら、この場にいる誰もを気遣うような丁寧な受け答えをする。きっと目が覚めるような美人なのだろう。朔太郎の両親が彼女を褒めるたび、朔太郎の中の彼女の像が育っていく。

 意地でも顔を上げない、はっきりとした声も出さない、意思表示の一つもない朔太郎は、そんな彼女にテレパシーでも送信したい気持ちだった。

 二人とも断れば破局になるさ、こんな縁談。

 朔太郎の食事は一向に減らない。

 アルコールの入った双方の両親は、すっかり気が良くなったようで、隣で朔太郎が始終気乗りしない態度を取っていても、叱りの拳が飛んでくるようなことはなかった。一刻も早くこの場を後にしたい気持ちを抑え、耐え抜いた結果、両親の怒号を聞かぬままお開きとなった。奇跡だ。

 朔太郎は速足で廊下を滑りながら、小さくガッツポーズをした。あとは明日の朝、アルコールがすっかり抜けてから、この縁談を断る話を正々堂々、両親にぶつけるだけだ。

 操の部屋は空っぽだった。まっすぐに操の部屋に戻って来た朔太郎は拍子抜けしてしまい、一瞬、思考が止まった。

 はて、どこにいるんだろう、と顔を左右させる。

「兄さん」

 声は背後から聞こえた。

 操の歩み寄る音は全く聞こえなかった。

「終わったの?」

 中庭から降る白い月の光の逆光で、表情はよく見えなかったが、辛うじて口元が持ち上がっていることだけはわかった。朔太郎は安堵した。

「終わった」

「おつかれさま」

 操は部屋に入らず、廊下と部屋の境目の障子あたりで立ち止まった。

「お父さんもお母さんも、珍しく酔ってたね」

「おかげで怒鳴られなかった」

「俺が女中達に頼んでおいたんだ。おめでたい席だから、いつもよりちょっとばかり度数の高い日本酒を盛るようにってね」

「そりゃあまた……食事に手を付けなくてよかった」

 操は、屋敷に仕える人々や蔵人たちとも仲が良い。こうしたいたずらも、すっかりお手の物だった。

 朔太郎は昔を思い出しながら、昨日からずっと気にかかっていたことを口にした。

「昨日のさ、越えちゃいけない線を越えようとしてるとかなんとかって、なに」

 操は、え、と言いながら軽く笑った。

「今、その話する? 自分の縁談より俺の冗談のほうが気になるの?」

「冗談? ……冗談か」

「俺は兄さんの将来のほうが気になるけどね」

 操はくるりと背を向け、両腕をぐっと宙に伸ばして深呼吸をした。

「空気が綺麗だ」

 などと言いながら、自分の言葉に自分でうん、と頷き、もう一度その綺麗な空気を肺いっぱいに押し込めた。

 彼は、胸を膨らませた状態のまましばらく沈黙していたが、不意にすとんと肩を下ろすと、確信したような口調で話した。

「兄さんはいい杜氏になれるよ。絶対に」

「だから俺は……」

「嫌なのはわかってるさ。でも、実際この家の長男は、他でもない兄さんなわけだし」

「だとしても」

「兄さんは頭も良いし機転も利く。誰からも好かれる人柄だし、人を束ねることも簡単にできるじゃないか」

「それ、お前のことだろ」

「違う、兄さんのことだ」

「俺はそんな器用な人間じゃない……」

「そうかな」

「そうだよ。第一、頭の良さも人からの好意も何もかも、操のほうが」

「俺と比べる必要はないんだよ」

 一瞬、会話が途切れた。

 操はやっと振り向き、なだめるように微笑んだ。

「この家の長男としてちゃんと生まれた時点で、もう後を継ぐのは兄さんだって決まってたんだ。これは変えられない事実さ。俺が代わってやることもできない」

 だんだん風が出てきた。冷えた夜風が、兄弟の間を邪魔していく。

 朔太郎は重い口を開いた。

「操なら、最後は俺の味方になってくれると思ってた」

 いじけたようなその言葉を聞くと、操はふふっと微笑んだ。

「俺はいつでも兄さんの味方だよ」

「なら、一緒にこの縁談を断ってくれ」

「そんなことしたら、俺、おそらく本当の意味で殺される」

 操は、親指で首を切る仕草をし、朗らかに笑った。そうして周囲には他に誰もいないというのに、さらに声を潜めて話し続けた。

「兄さんはなんだか、許嫁も縁談を嫌がってると予想してるみたいだけど、あっちの家はこの機会を身に余る光栄だと思ってるよ」

「え?」

「向こうは、断る気なんてさらさらないぜ。兄さん一人が喚いたって、取り消しになんてほぼ確実にならないだろうね」

「だったらお前も一緒に——」

「だからそれは無理だって。俺が首突っ込んでいい話じゃないことくらい、わかるだろ」

「じゃあどうすれば」

 朔太郎はそこで言葉を切った。

 そして、先ほど操がしていたように深く空気を吸い込み、落ち着きを取り戻そうと努めた。きいん、と、冷たい宵の酸素が肺の底に突き刺さった。吐く息は、真夏だというのに白く曇った。操の肌はそれより白い。

「俺の人生なんだ」

 朔太郎は弱々しく言う。

「俺の人生を、なんで俺が決められない?」

 親よ。どうしてあなたたちは、子を所有物のように扱うのだ。どうしてひとときもその首輪を放してやれないのだ。子に自分と同じだけの未来があり、今があり、過去があると理解しているのであれば、その言葉や表情や行動で、子の人生の選択肢をひねり潰したりはできないはずだ。

 俺はこの家に生まれた。でも、この家で生きたくない。なぜそれを俺が決められないのだろう——朔太郎は苦しむ。毎晩。

 やがて、しばしの沈黙のあとに、操がそうっと言った。

「きっと誰もそうだよ。誰もが、自分の人生を自分じゃない誰かに操られてる」

 その考えにも確信があるような言い方だった。

「死ぬ瞬間さえも、おそらく自分の意志とは関係なくやって来る。そういうものだろ」

 操は、廊下に立っている木目が剥き出しの柱に寄りかかり、胸の前で軽く腕を組んで目を伏せた。

「俺はそれに抗いたいけどね」

「それ?」

「自分の望まない瞬間に死んじゃうこと」

「はぁ……?」

「他人の人生を勝手に操ってる奴、誰だか知らないけど、その人に最後の最後くらいは抗ってみたくない? 最期くらいはさ、自分の思い通りのときに迎えたいじゃん」

「うーん……わからなくはないけど」

「俺は生まれた瞬間から落合操だった。兄さんは生まれた瞬間に落合朔太郎になった。でも、死んだあとだったら、もしかしたら俺は落合操じゃないかもしれない。兄さんも落合朔太郎じゃないかもしれない」

「……」

「変な話だよな。でも、そう信じちゃうんだ。死んだあとなら、俺たちは誰でもないなにかになれるのかもしれないって」

 操が自分の心持を、こんな風に吐露するのは珍しかった。もしかしたら初めてかもしれない。朔太郎が一ミリも考えたことのない範疇のものを真剣に考えている弟が、また心底素晴らしいと感じたし、同時に畏怖のような感情も湧き上がってきた。

 毎日のらりくらりと生きていて、諦めることと逃げることしかしていない朔太郎とは、たちが違うのだ。

 そう、こいつこそ、跡継ぎにふさわしいというのに。二番目に生まれたから何なんだと問い詰めてみたくもなる。世襲? ああ、なんて時代遅れな。

 夜風に乗って、まだ宴会の続きをしている声のざわめきや、食器の触れ合う音がそよそよと流れてくる。朔太郎はなぜだか、眩暈がするような頭の重さを覚えた。おかしい。アルコールは飲んでいないはずだ。

 何かを言おうとして口を開いたが、躊躇してやめた。

 操の顔が、ぼやけてははっきりし、ぼやけてははっきりした。自分の思う瞬間に死にたい、それはそうだな、と、ワンテンポ遅い同意をした。

 思えばこれまで、生きたいと思って生きてきたわけでもなかったな——朔太郎は思った。

 いつからこんなに無気力になったんだっけ。勝手に出産されて、生かされて、勝手に動かされて、ずっと生きてきた。自分で選択してこの家に生まれ落ちたわけではないし、ましてやこんな家系の長男になんて、選べたとしても選ばない。価値を見出せない、生き甲斐のない薄い人生だ。そんなだから、生への執着もない。もう自分がいつ死のうと構わなかった。

 唯一この生と現世に未練があるとしたら、それは操だった。朔太郎にとっては操が家で、操が生で、操が死なのだ。操がいればそれでいい。

「…………」

 死んだあと、誰でもないなにかになっても、操は俺の傍にいてくれるのだろうか。

 それとも、落合の姓が消えてなくなったら、兄弟ではなくなってしまったら、その存在まるごとどこか遠くへ行ってしまうだろうか。それはいやだな。朔太郎は思った。それはいやだ。では、死んでも操の傍にいるためには、一体どうすればいいのだろう? 兄弟という関係性をどうにかして維持できれば大丈夫だろうか? 都合のいいときだけ血縁関係を利用しようとする自分に、干からびてなお動こうとするミミズのような意地汚さを感じた。

 遠い宴会の音は極楽の奏でのようで、目の前に立つ姿は神の遣いのようで、朔太郎は、麻薬に毒された末期患者の気分で瞼を下した。結婚なんて、跡継ぎなんて、生も死も、もうどうでもいい。なにもかもどうでもいい。操。操だけでいい。

 すると、操がいつものように音もなく歩み寄って来て、兄の耳元にそうっと口を寄せた。

 ひとこと囁く。

 

 

 

 

 数十分後、兄弟は、通い慣れた駅のホームに立っていた。誰もいない、深夜の寂れたホームだ。

「兄さん」

 優しい声に顔を上げると、操が、朔太郎に向けて片手を伸ばしていた。

「いや……なんの真似だよ」

「いいじゃん、最後くらい。昔に戻ったみたいだろ」

 そう言われてもまだ渋ったが、にこにこと笑みを絶やさぬまま手を差し出し続ける弟に参り、朔太郎は照れ臭さを噛み殺して、その手を握った。

「お前、暑くないの」

 蝉の声は、まだ眠ってくれないでいた。

 真っ黒な詰入の学生服を着た操の手は、それなのに汗など全くかいておらず、ベビーパウダーに触れた時のような感触でさらさらしていた。

「暑くないよ」

「あ、そ、ならいいけど」

「寒くもない」

「ふうん」

「兄さんは? 暑くない? 寒くない?」

 真夏に「寒くない?」はおかしいだろと思ったが、それには特に答えなかった。

 横をちらと見ると、操は穏やかな笑みのまま、線路の向こうに立っている「落合酒造店」の看板を眺めていた。ずいぶん色褪せてはいるが、依然と立派に立っているそれは、切れかけの電灯に照らされて、ちかっ、ちかっ、とどよめいていた。

 しばらくぼんやり待っていると小さく、かんかんかん、と踏切の警報が鳴る音が聞こえてきた。この駅には停まらない電車がやって来る。それは、やがて突風を連れて目の前を通り過ぎるだろう。朔太郎は、点字ブロックの並ぶ黄色い線の上に足のひらを乗せ、そっと先へ越えた。

「兄さん」

 なに、と操を見たが、彼は何も言わずにただ微笑んでいた。

 かんかんかんかん。

 操の背後に、電車の顔がどんどん迫ってくるのが見えた。

かんかんかんかん。

 光はだんだん大きくなり、線路を揺らす音も、徐々に鮮明になる。

 かんかんかんかん。

 握った手が引っ張られる感覚がして、朔太郎は目を閉じた。

 

 

 

 

 次に目が覚めたのは、見覚えのない真っ白な天井のある、冷たい場所だった。うっかり火葬場で起きてしまったのかと思ったが、そんなことがあるはずはない。

 首を動かすとぎしりと体が痛んだ、と思ったのだが、痛みなど全くなく、体は自在に動かせた。さらに、自分はどうやら知らないベッドに寝かされているようだが、体には呼吸器などもつけられておらず、まるでこの場所で昼寝でもしていたかのような気楽な体勢だった。

 おかしい。と思い、身を起こした。

 何が起こっているのか理解も想像もできないので、とりあえず誰かを呼ぼうと声を上げかけたとき、クリーム色のカーテンの向こうから、なにやら人の声がした。心地よい低さの男性の声と、それに相槌を打つ女性の声だ。

「あの」

 目覚めたことを知らせるように言う。カーテンの向こうの会話がぴたりと止まった。

 しゃっ、とカーテンを引いて顔を出したのは、医者の格好をした男性と、看護師の格好をした女性だった。そうか、ここは病院か、と納得する。

「君、落合のお家の長男だね」

 医者の第一声がそれだった。田舎の者はそのブランドが何より気になるらしい。

 うんともいいえとも取れない返事をすると、別にその返事に期待していたわけでもない態度で、医師が続ける。

「じゃあ、一緒にいた高校生は次男の子かな」

「そうですけど、操……」

 そこで一気に思い出した。

 今が、ただ昼寝から目を覚ました瞬間ではないこと、意識を失くす直前のこと、それを提案してきた弟の言葉、昨夜の夕餉、昨夜の操。

 血の気が引いた。

 カーテンの向こうにいるはずの姿をこの目で確かめたかった。

「みさ、み、操は」

 心臓の鼓動が血管を震わせ、喋りにくい。

「操、は」

 急に錯乱し出した様子を見かね、医者が、妙な無表情でカーテンを全開にした。

 隣のベッドには、高校生ほどの年齢の男性の体くらいの大きさに膨らんだシーツの山が、どんよりと横たわっていた。片脚があるはずの場所はすっぽり凹んでいて、顔があるはずの場所には、端の方が赤黒く染みている白い布が柔らかくかけられていた。純白のはずのベッドは、顔の布の染みと同じ色ですっかり汚れ、枕の横には、真っ黒な学生服の破片だと思われる塊が、乱雑に置かれていた。隣には見覚えのある携帯電話が、画面が粉々に割れて中身が見えている状態で、大人しく並んでいた。

 看護師が、作ったような同情の顔で傍に来て、朔太郎の肩に優しい力加減で手を置いた。

「とてもかわいそうだけど」

「操、は」

「でも、苦しまなかったと思いますよ」

「操」

「きっとあなたを庇ったんでしょう。ホームから落ちてすぐ、電車が通り抜ける直前に、あなたを突き飛ばして線路の上から逃がしたみたいです。だからあなたはほぼ無傷で、衝撃によって意識だけ失った状態で発見されました。でも弟さんは」

「操……?」

「落ち着いて、ね。今、ご両親に連絡したところですから」

 その先は何も聞こえなかった。

 ここはさらなる地獄だ。朔太郎は思った。

 

 

 

    四

 

 

 

 狭い田舎町に走る噂話は秒速だ。操の訃報は、すぐさま町中に広まった。

 葬儀は、見せびらかすように大々的に行われたが、朔太郎の思考は始終底を這っていたため、何がどう行われてどう終わったのか全く覚えていなかった。気が付いた時には喪の衣装を脱ぎ、操の部屋でぼうっと天井を見上げていた。

 ひんやりとした畳に投げ出した四肢に、感情はない。収骨さえ終わったというのに、脳には「?」しか浮かび上がらず、昨日と今日で何が変化したのか、一寸も飲み込めていなかった。

 ひぐらしの声が、開け放した障子の戸を通じて響いてくる。夏の夕方のにおいが充満する操の部屋は、呼吸をひそめているかのような空気を抱えていた。庭の木々が風に揺られるさやさやという音に耳を傾けながら目を閉じると、意識はゆっくりと沈んでいった。

 そのうち、朔太郎は人の気配で目を覚ました。畳に大の字になったまま縁側の方へ顔だけ向けると、まさに「はっ」という顔をした女性と目が合った。二度目だ。

 あぁと思う。

「また勝手に入って来たの……」

 朔太郎の厭きれたような声を聞くや否や、麦子は勢い良く頭を下げた。

「ごめんなさい!」

「操の葬式なら終わったよ」

 朔太郎は、自分が何を発言しているのかよくわからないまま言った。

「知ってます。参列させていただきました」

 彼女は殊勝な顔をして静かに言った。

 それから飼い主を探している捨て犬のような様子で、辺りを一周だけ見回した。

「操ちゃんも、最後まで本名で呼んでくれなかったな」

 操の急すぎる、そして早すぎる訃報についていけていないのは、屋敷中の動揺を見るに朔太郎のみではないようだったが、麦子だけは始終落ち着いていた。このような事態になったとき、一番動転して大騒ぎするのは麦子だと思っていたが、その予想は見事にはずれたようだ。

「そりゃあ動揺しましたよ。私だって」

 麦子は、暗くなってきた空を見上げながら話した。

「じいちゃんから聞いた時は、全然意味がわからなかったし、意味がわからなかったっていうか、冗談でも言ってるのかな、みたいな。飲み込めない感じで」

 うん、と、朔太郎は心の中で頷いた。朔太郎自身も全く同じ状態だった。

 操の死の現場にいた唯一の当事者だというのに、無責任にも心底、同感した。

「操ちゃんはいなくなったはずなのに、操ちゃんの靴とか、操ちゃんの書いたメモとか、操ちゃんの写った写真とか、そういう操ちゃんが生きてた跡は残ってて、本人だけ突然もういないとか、よくわかんない」

 本当にそうだ。その通りだ。

 朔太郎は沈黙で同意を示した。

「死んだってなに? 操ちゃんが死んだなんて、嘘なんじゃないかな。よぼよぼのおじいちゃんになったわけでもないのに」

「……」

「明日になれば、また戻って来る気がする。ちょっとの間だけ、見えないところに隠れてるだけで、もう二度と会えないなんてことは絶対ないよ。うん。CD貸したまんまだし」

 麦子は、そう自分に言い聞かせていた。

 彼女と同じように楽な方へ思い込みたい朔太郎と、操の死体の臭いが忘れられない朔太郎が、ひとりの朔太郎の中で拮抗しているようだった。もう実家に留まっていたくない気持ちもしたが、都会での一人暮らしに戻る理由も見当たらなかった。

 操の部屋から中庭へ続く縁側に座った、麦子の橙色の膝が宙に泳ぐ。つまさきが不規則なリズムでいったりきたりして、壊れたメトロノームのように、乾いた振り子時計のように、ぶらぶらした。

 

 

 

 操の死をきっかけにすっかり窶れてしまった宇賀神も、麦子と同じようなことを言っていた。

「亡くなった人は、消えてしまったわけではないんですよ、朔坊ちゃん。少しの間だけ、ここから見えない場所に隠れてしまっただけなんです」

 じゃあなんで隠れてるんだよ、かくれんぼでもしてるつもりか? もうそんな歳じゃないだろうに。

 声には出さなかったが、朔太郎がそんなことを腹の中で思っているのを感じたのか、宇賀神は、あやすように弱々しく笑ってみせた。

 操を実の息子のように育てていた彼女にとっては、その死は言葉で表せないほどの衝撃だったはずだ。それでも決して欠勤しない彼女の立ち姿を見て、朔太郎の脳裏につい「母は強し」というあまり好きではない言葉が過った。

「宇賀神さん、母さんはどうしてる?」

 急にぶっきらぼうに聞かれたことに驚き、宇賀神は一瞬たじろいだ。

だが、すぐに答える。

「奥様でしたら、お部屋でお休みになられていますよ」

 実際の両親のことは、操の葬儀の際に、やたらと綺麗な喪服で首元に真珠を輝かせながら親戚やそのほかの重役そうな関係者に挨拶をしている姿を遠目に見かけた以来、目にしていなかった。

 何がお休みだと、腹の底が煮えくり返る思いだった。本当に休むべきは宇賀神を始めとする、日頃から操と関わりの深かった人々だろう。

「朔坊ちゃん、お抹茶でもお持ちしましょうか」

 絵に描いたような「母親」の笑顔で言う宇賀神を見て、朔太郎は胸が締めつけられた。

 

 

 昔、まだ兄弟がランドセルを背負っていた頃、宇賀神はよく、広い庭で走り回って遊ぶ二人を、縁側に腰掛けて見守ってくれていた。湯気の立つ茶が揺れる湯飲みを持って穏やかに微笑む宇賀神は、実際より幾分歳が増して見えたが、それが余計に兄弟を落ち着かせていたのだった。「母親」が見守ってくれている空間というものは、子どもにとって、無意識にも平和な世界になり得るのかもしれなかった。

「宇賀神さん!」

 操が器用に庭池を飛び越え、片手を掲げながらぱたぱたと縁側へ駆け寄った。

 それを追いかけながら「あちー」とこぼし、シャツの胸辺りを揺らして風を起こそうとしているのは朔太郎で、走る気力も、そもそもやる気もないように、潰した革靴を引きずりながら歩いていった。朔太郎のほうも、片手に物を持っていた。

「見てください! 俺のと兄さんの、どっちが大きい?」

 日焼けなどなんのその、雪のように白い肌を太陽の光で輝かせながら笑う操は、蝉の抜け殻を指先で持っていた。遅れて到着した朔太郎も同様に、蝉の抜け殻をでんと掲げ、宇賀神の目の高さにする。

「ぜってー俺のが大きいよなあ」

「そうかなあ? 翅は兄さんのほうが大きいけど、体長は俺のほうが大きいよ。〇.四センチくらい」

「こまかー!」

 優劣をつけたくないため、宇賀神はどちらのものが大きいか、答えは出さなかった。

「どっちも大きいと思いますよ。同じくらい」

 しかし彼女の優しい答えでは、朔太郎も操も、幼いながら満足しなかった。

「同じじゃだめなんだって!」

「じゃあ、定規で測ってみる?」

「うーん……定規って、なんか勉強してるみたいじゃない?」

 うんざり、という表情をする朔太郎に、操は笑いかけた。

「そうだね、やめたやめた」

 また新しい蝉の抜け殻を探索しに行く兄弟は、何も疑わず本当に楽しく遊んだ。このような場面だと、やたらと広大な庭も魅力的な遊び場になる。

 宇賀神の座る縁側から続く座敷の部屋には、涼しげな風鈴の音が響いていた。テーブルの上で、扇風機の風に勝手にページをめくられているのは、操の「夏休みのとも」だった。飲みかけの麦茶が入ったガラスのコップは汗をかき、テーブルの茶色を濡らしていた。中の氷は、すっかり溶けてしまっている。

「お二人とも、喉乾いてませんか? なにか用意しましょうか」

 汗で色が変化している朔太郎のシャツを見て、宇賀神が声をかけた。

「冷たいやつがいいです!」

「うん、氷入れてほしい!」

 二人は遠慮なく注文した。

「冷たい何ですか、お水? 麦茶?」

「おまっちゃ!」

「操ちゃんはお抹茶ですね。朔坊ちゃんは何にしましょう?」

「俺も同じのでいいや!」

 二人は、そんな調子で長い間、炎天下の下で夢中になって遊んでいた。

 が、突然、屋根の下へ戻るよう言う声がかかった。

 兄弟の産みの母親は、直射日光を避けるように真夏らくしない着込み方をして、意地でも庭に出るものかと廊下に立ったまま、外気なんて不潔なものは吸い込みたくないとでも言わんばかりに口を袖で覆いながら、宇賀神の横に立っていた。

「朔太郎、宿題は終わったの?」

 二つの小さな足音が、ぴたりと止んだ。

 朔太郎は、表情の消えた顔を横に振った。

「早く終わらせなさい。いつまで汚い真似をしてるの」

「汚くないよ、母さん。蝉の抜け殻を見つけたんだ」

「そんなもの集めて何になるの。捨てなさい」

「だって」

「言い訳は聞きません」

 だって、操と遊ぶの楽しいんだ。

 母親は、夏休みはおととい始まったばかりだというのに、宿題をすっかり終わらせるまで自由な時間にも口を挟んでくる気のようだった。そうでなくても、早朝から昼食まで休憩なしで勉強をさせられ、夕方は家業の見学、夜も大人しく机に向かっていないと怒られるのに、まだ束縛してくるつもりらしい。

 不服そうに黙る朔太郎の横で、操はしばらく口を閉ざしていたが、やがて遠慮気味にひとこと、発言した。

「僕もお兄さまと遊びたいです。お母さま」

 母の目がほんの一瞬、朔太郎の横に滑りそうになったが、結局そうはならなかった。

 宇賀神が、色が白く変わるほど下唇を強く噛んで顔を背けた。目元は暗い。

「朔太郎、今すぐ勉強に戻りなさい」

「でも、母さん」

「戻らないとお父さんに言いつけるからね。あなたはここの長男なんだから、他の人たちと同じように遊んでる暇はないの。たくさん勉強して、お父さんのように優秀な蔵元になりなさい」

 そう言い残して音もなく去って行く母親の後ろ姿は、とんでもなく悪質な魔女のように見えた。凍った空気を壊すように、宇賀神が朗らかに撤収を提案し直してくれる。

 寂しい夕暮れ時のひぐらしの鳴き声が、あの懐かしい夏休みの思い出と重なった。

 やがて、あの頃よりさらに年季の入った宇賀神が、操の部屋で呆けたようにただ横になっている朔太郎に、そろりと冷えた抹茶を運んできてくれた。

 氷がグラスに当たる冷たい音が、耳に痛い。胸にも痛い。

 抹茶が好きだったのは、操のほうなのだ。

 

 

 

「人の人生を勝手に操ってる奴、誰だか知らないけど、その人に最後の最後くらいは抗ってみたくない? 最期くらいはさ、自分の思い通りのときに迎えたいじゃん」

 最後の晩にそう語っていた操の言葉が、ずっと忘れられないでいた。

 時間が経過し、脳と体が操の死の事実に慣れてくるにつれ、操の死に様のことを考えて過ごす時間が長く、長くなっていった。最期は自分の思い通りのときに迎えたいと言っていた彼が、今際にああいった行動を取ったのは、無理無理には納得はできるが、だとしてもなぜ今だったのか、なぜ朔太郎を巻き込んだ(巻き込もうとした)のか、それらに関しては見当すらつかなかった。

 あの晩、操の囁き声で言われたものは、まるで魔術かなにかの呪文のようだった。他の部位がどんなに落ち着いてこようと、心は慣れてはくれない。感情は依然、麻痺したままだ。

 操のいない世界に寄り添えずにいた。理解はできず、しようともせず、したくもない、よもやできるまい。操の死から何も口にしていないせいで、朔太郎は始終ぼうっとしていた。

「母さん」

 母屋の廊下を進んだ奥に位置している寝室の前に膝をつき、襖を開けずに声をかけた。返事はない。しばらく待っても静寂があるだけなので、朔太郎は諦めてそのまま続けた。

「東京に帰ろうと思う」

 反対意見の怒号が飛んでくるかと身構えていたが、向こう側から流れてきたのは、蚊取り線香の煙たい匂いだった。

「荷造りが済んだら帰る」

「帰る、なんて言うの」

 静かに返ってきた母の言葉は、寝起きのようで寝落ちる寸前のようで、それでいて妙に発音がはっきりしていた。

「あなたの家はここでしょう、朔太郎。帰る場所はここであって、東京は一時の住処」

 朔太郎は、これには特に返事をしなかった。操のいない家を「帰る場所」とは言いたくなかった。

 沈黙したまま立ち上がり、その場を後にする姿勢に入る。

「母さん」

「なあに」

「どうして病院に来なかったの。操が死んだとき」

 母からの返答はない。

 朔太郎は詰問した。

「母さんは、夜、屋敷での客の応対くらいしか仕事はないだろ。なのにあの事故——朔太郎は、自分の発した事故という言葉に抵抗を覚え、軽く眉を寄せた——のとき、病院に駆けつけてくれなかった。なんでですか」

 それでも母は何も言わなかった。

 寝たわけはないと思ったので、朔太郎はそのままの口調で、とどめを刺した。

「操もあなたの息子だ」

「……」

「死んだのが俺だったら、駆けつけたくせに」

 怒りというよりは、厭きれのような感情だった。朔太郎は廊下を歩き出した。

 すると、ようやく返答の声が聞こえてきた。

「あの子どもが自分の子だったか、自信はない」

 あゆみが止まる。耳を疑った。

「産みはした。産みはしたけど、誰の子かすらわからない」

「何をふざけて……」

「朔太郎、あなたはまだ小さかったから知らないでしょうけれど。あの子どもを妊娠した頃は、わたし、ちょうど他のことで入院していて、しばらく誰とも寝ていなかったの。だから落合の子かどうか以前に、なぜ孕んだのかもわからない、とても気味が悪かった」

「……は……?」

「話してたら、本当に気分が悪くなってきた。いやだ」

 布の擦れる音が聞こえ、その次には軽く咳込む気配も聞こえてきた。朔太郎は、聞き難い話を聞きながら、両腕にざわざわと鳥肌が立つのを感じた。

「そもそもわたしは体も弱いし、あなたさえ無事に産めれば、それで良かったの。落合には跡継ぎになる長男しかいらない。二人も産むなんて必要も、希望もなかった」

 母はまた咳込んだ。

「それなのに……。どこかの神の母でもあるまいよ。あの子どもは基督(きりすと)じゃあない」

「操をあの子どもと呼ぶのはやめてくれ」

「人にものを頼む時は、ください、でしょう。朔太郎」

 朔太郎は、襖を睨んだ。母親の、他の色が混ざったことのない漆黒の髪や、直射日光を嫌う病的に白い肌、病原体でも扱うように動かす指、相手の内面まで観察したがるように動く瞳、人体に害のある瓦斯でも吸うかのように呼吸する雰囲気が、それ越しにありありと浮かぶようだった。

 かつては、操の容貌は母親譲りなのかと考えたこともあった。決して美丈夫とは言えない父親と、外見の良さだけで生きてきたような母親の間に産まれた子どもだ。長男のみてくれは父に似ているところが多々あるが、次男に関しては、母の美しさをこれでもかと腹の中で吸収して生まれてきたように見えていた。

「確かにわたしの腹からは産まれた。でも。名さえ与えていない子どもに情など——」

 朔太郎は唾を飲み込んだ。

「名さえ与えてないって、どういうこと」

「あの子どもの名前のこと」

 母はまた咳込んだ。

 落ち着くと、再び話し出す。

「あなたの名前は責任を持ってお父さんがつけたけど、あの子どもの名前は宇賀神がつけたの。彼女を雇ったのは、あの子どもが生まれたから、だから。ここに来てまず名付けの仕事を命じた。朔太郎とは似ても似つかない子になるように、そんな名を。そのあとの育児もわたしは一切していないでしょう、全て宇賀神に任せたから。正妻の仕事ではないの、あんな子の面倒見など」

「やめてくれ……」

「やめるなんて、もう終わったじゃない。あの子どもは死んだ」

 母は、疲れたようにため息を伸ばした。

「でも、まだ早いうちにこうなってくれて、良かった。最初は中絶する予定だったの、あの子ども」

「だから、操だっつってんだろ!」

 わけもわからず、朔太郎は泣き出した。

 涙がぼたぼたと溢れて流れて、止まらない。それらは木の床に次々と染みを作り、乾く暇もなくぽつぽつ、ぽつぽつと、丸い柄を描くように続いた。操が突如としていなくなったあの晩から、初めて泣いた。初めて「苦しい」という感情が起こった。

 苦しい。苦しい苦しい。操がいない。くるしい。

 耳の中で警報が鳴る。遮断機が下りる。

 かんかんかんかん、かんかんかんかん。

 みさおはしんだ。操がいない。かんかんかんかん。

 声もなく涙がただ垂れていたのに、徐々に泣き声が起こってきて、ついには嗚咽が抑えられなくなった。目眩を感じ、朔太郎は、廊下を染めている涙の跡によろよろと膝をついた。酸素を吸うのが困難になる。見下ろした自分の手の甲が、信じられないほど青かった。

「口の利き方に気を付けなさい。朔太郎」

 母の冷酷な言葉が、襖の向こうから下される。

「それと、お正月にはまた帰って来なさい。あなたの許嫁もここに来るから」

 朔太郎は立ち上がれない。

 もう、狂ってしまいそうなほど、今すぐ操に優しい抱擁をしてやりたくて、たまらなかった。

 

 

 

    五

 

 

 

 操の死因は「事故死」とされたが、真実がただのそれで終わらないことを、朔太郎だけは知っていた。

 由緒ある家系の若い末息子の死なので、一応丁重に扱われる問題ではあったが、小さな田舎の無人駅を通過する電車に撥ねられたとなれば、ああそうですか、それは残念でしたね、としか言いようがない。その場に誘われた誰かがいたとか、その誘いを承諾して共に線路へ飛び出た誰かがいたとか、そういった類の話題は、田舎町の狭いムラ社会にも一切広がらなかった。朔太郎が当然、口外しないでいたのだ。

 弟を慕いに慕っていた兄にとって、あの晩の囁きとあの自分を導く手は、操との最後の繋がりのような気がしていた。あれを部外者に流してしまったら、その繋がりが薄まったり無くなったりしそうで、恐ろしかった。

 大学生の夏休みは必要以上に長い。まだ折り返し地点にも到達していない今日だったが、操がいない今となっては、朔太郎にとって実家に滞在し続ける意味もすっかりない。早速荷造りを終えて、出発した。

 気がついてみれば、世界は日曜日だった。毎年行われる地元のこぢんまりとした夏祭りが開催されるようで、普段は駅員さえいない駅のホームに、今日だけはちらほらと人がいた。

 浴衣に身を包んでいる人も窺える。からんがらん、と乾いた下駄の音が響く。朱や橙の鼻緒が、白い足の親指と人差し指の間を赤くしていく。付き合い出したばかりの恋人とでも待ち合わせをしているのか、改札を出たところで携帯電話片手に辺りをきょろきょろと見回す落ち着かない女性や、友人らと連れ立ってもう酔っ払ったかのように騒ぐ男女が、なんだかきらきらと目に眩しく沁みた。

 朔太郎は、くたびれた靴の踵を踏んでずっずっと引き摺ったまま、膨らんだ荷物を背負って駅の構内を横切った。何も持っていない手が寂しくて、欲しくもないのに買った緑茶が、手の平の中で汗をかき水滴を垂らした。駅を吹き抜ける夕方の風は、冷え始めのにおいがうっすらした。

 機械も人もない改札を通り過ぎた。ホームに出て、錆びた椅子に座って電車の到着を待つ。一番線しかないここは、迷う可能性もない。朔太郎は椅子の背凭れに体重を預け、屋根の向こうに広がる染まり始めた夕空を仰いだ。

 やがて、のぼりの電車が到着し、一両しかないそこから祭りの様相をした集団が下車してきた。朔太郎はすれ違いに乗り込み、疲れた様子の老婦人と、部活帰りの野球少年二人組しか乗っていない寂しい車内の、がらがらに空いた席の隅に座った。ちょうど車掌の後頭部も見える。

 そういえばたった数日前には、この駅で、操が帰省する兄を出迎えてくれたっけ。

 朔太郎は、背中の窓からホームを振り返った。やがて電車は発進する。

 

 

「麦子の好きな人、知ってる?」

 不意に操の声が蘇ってきた。

 昨年だろうか一昨年だろうか、今日のような蒸し暑い夏、操とふたつ離れた町のデパートまで買物へ出かけた時に、この電車の中で言われた台詞だった。

 操はその日も、高校の制服の夏服をシワひとつなく着ていた。夏の強い日光に反射するワイシャツの白色が眩しく、目を細めたのを覚えている。

 電車内には誰も乗っておらず、それなのに二人して椅子には腰掛けず、吊革に捕まり立ったまま、流れ去る田舎道の風景を眺めていた。車内には珍しく冷房が利いていた。天井にぶら下がる扇風機が首を振りながら送ってくる微風だけで、移動中の暑さに耐えねばならないこともあるのに、その日は幸運だった。

「麦子の好きな人?」

 どうでもいいと思いながら、朔太郎は一応聞き返した。心底興味がなかった。

「そう、俺知ってるんだけどさ」

「ふうん、誰?」

 聞くと、待ってましたとばかりに、操は悪戯っぽくにやりとした。

「俺」

「え?」

「麦子、俺のこと好きなんだってさ」

 しばらく電車の走る音だけがごとごとと響いていた。兄弟は互いに何も言わない。

 すると、会話の沈黙に耐え兼ね、操が吹き出した。

「兄さんのそんな顔、初めて見た」

 自分が一体どのような表情をしていたのかはわからないが、弟にとってはそれがおもしろかったらしい。朔太郎は自分のしたことをからかわれたような気分になった。つい不貞腐れたような口元になる。

「なんだよ、それ。麦子に言われたの?」

「告白された。昨日」

「俺に喋っていいの?」

「いいんじゃん? 麦子、お兄さんは気付いてると思うけどって言ってたし」

「いや別に……知らないけど」

「ふうん」

 操は、一つの吊革に両手でぶら下がり、窓の外を見ながら軽く微笑んだ。

「俺は気付いてたけどね。いつ言われるかなーって思ってた」

 操は昔から、人から愛の告白をされることに慣れていた。しかし、これまで恋人という存在は一度も作らずに生きてきたので、つまり愛の告白を断ることにも慣れていた。彼は、人の好意をいかに傷付けずに避けるか、いかにそのあとの関係を良好なものとして保ち続けるか、それらの手段を熟知し、そして非常に上手くやっていた。

「実はさ、前にも言われたんだよね。麦子に」

「好きだって?」

「そう。いつだったかな。多分、中学の頃」

「それで、お前なんて答えたの」

「兄さんが家を継ぐまでそういうのは考えられないって言った」

 吊革につかまる腕の上から、漆黒の前髪の間を縫って、きらきら輝く操の瞳が、朔太郎を静かに窺ってきていた。つい、どきりとした。西洋の美術館にでも飾られていそうな輝きを放つ、その茶色みを帯びた黒の宝石から目が離せず、一瞬、ここが平成の日本の小さな田舎町の電車内だということすら忘れた。

 うつくしい。

 彼は本当に、埃を知らない凶器のような美しさを、いつでもこんなにも見せつけてくる。いっそ恐ろしかった。

「今回もそう言ったよ。麦子に」

 囁くように告げる声は、やかましいはずの電車の中さえ、しんとさせた。世界中の誰もが、今、この声に耳を傾けているはずだと思った。

 朔太郎は唾を飲んだ。

「……何も、お前がそこまでしなくたって」

「俺は俺である限り、そこまでするよ」

 そう言い、操は朔太郎から視線を外して、前に向き直った。

「兄さんは絶対に立派な蔵元になる」

「なれないだろ……」

「きっとなるよ。大丈夫」

「わかった。なったとするよ、なったとしたらさ、お前はどうなるわけ?」

「俺?」

「うん」

 俺が継いでも、お前は落合の家にいてくれるのか。

 本当に聞きたかったことは、聞けなかった。操は質問には答えず、流れる景色のように穏やかな表情で背筋を伸ばしたまま、吊革を握っていた。

 

 

 

 電車に揺られながら、睡魔に負けていつの間にか寝てしまっていて、顔を上げた時には、結構な時間が経っていたようだった。

 車内はずいぶんと暗く、空模様はどんよりとした曇り空で、ほんのりと夕焼けの赤も混ざっていた。乗客は、朔太郎の他に、俯いて爆睡している老爺と、同じく静かに寝ているスーツ姿の男性しかいない。冷房が効き過ぎているのか、真夏だというのに非常に肌寒かった。

 寝過ごしてしまったかもしれない。現在地がわからないので、とりあえず次の駅のアナウンスを待つことにした。ぼんやり待つ間も、朔太郎は操のことを考える。数十分など飛ぶように経過した。

 気付くと、外は夜の暗がりになっていた。次の駅までの時間が大分長いので、次第に心配に、落ち着かない気分になってきた。もうずいぶんと暗い田舎道の同じような景色の間を走り続けている。

 どれくらいそのまま走り続けていただろう。やがて、ゆっくりと電車は停まり、ドアが開いた。入り込んできた外気は、梅雨のようにじんわりと湿っていて、寒さに耐え兼ねていた肌に追い打ちをかけるかのように、べっとり貼り付いてきた。

 誰も降りない。乗ってもこない。朔太郎は立ち上がり、今の停車駅の名前を見ようと窓の外を見やった。

 はたしてそんなに深い夜だったか、どれだけ目を凝らしても外の風景が窺えなかった。ホームに立っているはずの、駅名が記載された看板さえ目視できない。遠い遠い駅の向こうでは、民家なのかぼんやりと灯りが浮かんでいるのが見えるが、手前にあるものはなんだか目で認識するのが難しかった。

 朔太郎は、電車から降りた。長い間この駅に停車したままなので、便所に寄る時間もあるだろうかと、ついでにいい加減に現在地も知りたいと思い、見知らぬ駅のホームをそろそろと歩き出した。

 すると、まるで朔太郎が下車するのを待っていたかのような絶妙なタイミングで、電車がのっそりと発車した。慌て、

「えっ、ちょっと待って」

 と、小走りに列車を追いかけて車掌の顔に伝えようとしたが、車掌席に座っている人間の顔がうまく認識できなかった。確かにこそに顔面はあるのだが、目がどこなのか、口はじゃあどこなのか、よくわからなかった。

 そうして電車は去って行った。朔太郎は、直観的に異変を察知し、腹の底から恐怖が湧き上がってくるのを感じた。なにかがおかしい。なにかが起こりそうな予兆、落ち着かない妙な高揚感を抱え、ホームに立ち尽くす。現在地さえわからない。

 荷物は電車に乗せたままだった。運良く、携帯電話と家の鍵、多少の小銭はポケットに入っていた。

 誰かに助けを求めようと携帯電話の画面を表示させると、眩しすぎるほどの明かりの中、最初に探し当てたのが実家の電話番号だったので、あまり乗り気はしなかったが、緊急事態ということを汲んでその番号を発信した。電話は、いつまで経っても繋がらなかった。呼び出し音は流れ続けるのに、誰も電話口に出ない。酒造店のほうの番号にかけても同様の結果だった。店の電話番号は、いつの時間帯にかけても必ず、係が対応するか営業時間外を教えるアナウンスが流れるかはするはずなので、さすがにこれはおかしかった。

 ぷるるる、ぷるるる、ぷるるる。

 機械的な呼び出し音が、朔太郎の不安をさらに煽る。宇賀神の携帯電話にかけても、麦子に連絡してみても、見当たる限りの友人にかけてみても、同じだった。画面の左上に「圏外」と表示されているわけでもない。

 駅の外へ出てみれば、もしかして公衆電話があるだろうか。携帯電話の普及が進みに進んだ平成の時代も終わりに向かっている今、はたしてそれが道端に設備されたままになっているのかどうか、自信はない。ただ思い返してみれば、朔太郎の実家のある町にも、町役場や図書館に現在も公衆電話のボックスがあったはずだった。朔太郎は一抹の期待を胸に、駅の改札口へと向かった。

 駅構内はだいぶ古びていて、今にも幹の途中で折れて倒れてきそうな木材がなんとかして天井を支えている。建物が自分に向かって雪崩れ落ちてくる悪夢を見たことがあったが、不意にそれを思い出して恐怖にかられ、つい足を速めた。照明は、どれもほとんど機能していない。

 小さな駅だったので、改札口はすぐに見つかった。口は一つしかない。田舎の無人駅のように、機械の改札ではなく誰かしら駅員が立って対応する形のようで、大人が一人入れるような隙間があった。現在は誰もいなかったので、一応周囲を見回してからそこを跨ぎ、急ぎ足で構内を横切った。

 なにか得体の知れないずんぐり大きなものに後をつけられているような、姿の見えないなにかに物影から観察されているような、気味の悪さが追ってきていて、無意識に呼吸が荒くなって汗が染み出した。

 靴の底が、じゃり、という。駅から外の世界に踏み出した。

 周囲は山に囲まれていて、少し赤みを帯びた夜の空に真っ黒な影が聳え立ち、それはそこの周りを固く囲んで守っているかのように、ひっそりしていた。遠くに民家の灯りもぽつぽつ見える。電車が去って行った方向にはトンネルがあり、山の麓を削って割り込むように線路が伸びているのが窺えた。

 人の気配もなければ、車の通行音もない。そのうち、静寂の中、弱い夜風に乗って、祭りのような太鼓の音が聞こえてきた。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 夏の夜、決して寒くないのに鳥肌が止まらない。身震いもした。

 朔太郎は見知らぬ土地で迷子も同然の状況に気が焦り、時間を見ようと思い掲げた手から、携帯電話をするりと取り落とした。しゃがみ、拾う。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 太鼓の音は、トンネルのある方向からだんだん近付いてくるようだった。

 携帯電話の電波表示が、ついに圏外を示すようになった。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 どうすればいい。太鼓の音が妙に魅惑的に感じてくる。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 そして、立とうとして顔を上げたそのとき、起こり得ない光景を見た。

「に、兄さん……? ……」

 時が止まったようだった。

 操のほうも、信じられないものを見た顔をしていた。

「なんで、ここに」

 硬直したままの朔太郎に、操はすぐ近寄ろうとはしなかった。

「どうして? そんな、兄さん、また……」

 操は、朔太郎の記憶にある最期のときの格好のまま、真っ黒な詰襟を着て立っていた。

 どこからどう見ても落合操だった。

「……え……? は……?」

「兄さん、なんでこんなところに来たの?」

「は……? なんでってお前、そんなのこっちの……、み、操? 本当に操なのか?」

 がくがくする膝で立ち上がり、朔太郎は操の肩に触れた。しがみつくように。

「い、生きて……?」

「兄さん」

 操はくにゃりと笑った。

 腹の底で何を思っているのか想定できない、不可解な笑みだった。

「俺は死んでるよ」

 美しい笑顔が告げる。落ち着き払ったそれとは裏腹に、朔太郎は混乱していた。

「なに言ってんだよ、生きてんじゃん。なんだよ、それならそうと……こんなところで何してたんだ? ここ、どこだかわかんないけど、とにかく早く家に帰ろう。な」

 朔太郎が一歩近付くと、操は一歩後退した。笑顔のまま、それ以上近付かないでと言うように首を横に振る。

 朔太郎の背後にある駅の出入口から、静かに風が流れ込んできて、朔太郎の後頭部を撫で、そのまま操の前髪を穏やかに揺らした。

「帰れない」

「は? 帰れる」

「兄さん、落ち着いて。俺は死んでるんだ」

「死んでたらこんな風に話なんかできないだろ。なんだよ、そうしたらこれは夢だとか言うのか」

「夢ではないよ。現実さ」

 操は、観念したようにゆっくり朔太郎に近付いて、距離を縮めて兄の顔をまっすぐに見つめた。

「わかった。全部話すよ、兄さん。だから、これから俺が説明することをなにもかも信じて、終わったらまた電車に乗って、ちゃんと向こうに帰ってよ。そうじゃなきゃ俺は」

 そうじゃなきゃ俺は何なのか、彼はみなまで言わなかった。

 

 

 

 兄弟はそれから、隣に並んで、駅からゆっくり歩きながら話をした。

 操が言うには、いま二人の歩いている場所は「あの世とこの世の狭間」で、現世で言う「命」はもうないが列記とした「死」もないような存在が、一時的に留まる世界なのだという。毎日何人か(または何匹か、など)が列車に乗ってやって来て、何人か(同じく)が乗って去って行く。ここの次の駅こそが「黄泉国」だという。

 操はあの日、線路に飛び込んだあと、目が覚めると電車に揺られていて、導かれるようにこの駅で下車し、迎えが来るまでここで生活をしているらしい。

「慣れると案外快適なものだよ。ここには労働もないし、税金もない、不思議なことに政府や教育さえないのに、犯罪もない。まあ、この先はもうちょっと人間らしい社会みたいだけどね」

 地球上から観察のできる惑星なるものも存在しないのか、現世で太陽が輝いている位置には黒い丸が浮いており、それは勢力を使い切って焦げた太陽のように、力なくぼんやりと辺りを照らしていた。申し訳程度の弱い赤茶色の光のため、世界全体が茶色く薄い布を覆い被されているかのように、輪郭がぼやけていた。

 この世界には非常に不思議な、名状し難い雰囲気がある。おどろおどろしく恐ろしく、かつなんだか穏やかで、幽霊や奇形の者が現れそうで、しかし心優しい老夫婦が暮らしていそうで、朔太郎が歩いていると妙に落ち着かない。

 やがて、白川郷の合掌造りの集落を彷彿させる街並みに出た。

 ほとんどが木造の戸建て民家で、趣味程度に小さく開かれている店がたまに見受けられる程度の、なごやかな村だった。あまりに暗いのですっかり夜だと思い込んでいたが、そうではないのかもしれない。人や人らしき者とたびたびすれ違った。目を覆いたい気持ちを抑えてじっと窺うと、中には正常な人間の姿をした親子もいれば、はたしてヒトなのかそうでないのか判別の不可能な、よくわからない物体も歩いていた。犬や猫などの動物もうろうろしている。

 すれ違いざま、操に軽く会釈をしていった者がいた。操はその人物(ヒトなのかはわからない。それはヒトに近い恰好をしてはいたが、フードを深く被っていて顔が見えなかったうえ、人間にしてはかなり背丈が足りなかった)に、干芋のような物を譲り受けていた。操は受け取ると礼を言い、それを躊躇なく口へ運んだ。

「兄さんは、ここのものは食べちゃあ駄目だよ」

 何を食べているのかと見ていると、操が言った。

「帰れなくなっちゃう」

 村を抜けると、山道に差し掛かった。

 遠くの山の麓には、駅前で見たものと似たトンネルがあった。その周辺には、道祖神の石碑や石像が不気味なほど大量にずらっと置いてあり、暗闇の中にそれを認識した瞬間、ざあっと鳥肌が立った。

「あっちが黄泉だ」

 操は説明する。

「多分、俺もいつかは電車に乗って、トンネルの向こうに行くんだと思う」

 トンネルを抜け、太く深い川に架かる橋を過ぎると、その國に到着するという。朔太郎は「その川はもしかして三途の云々」と思ったが、言わないでおいた。

 操は目を細め、まるでトンネルの反対側の世界を透視しようとしているかのような表情で話した。

「ここではみんな、それを待ってるんだ。ごく少数、逆の電車に乗り込んでしまう人達もいるけど、それは決して正しい行いじゃない」

「詳しいんだな……」

 久しぶりに声を出したので喉ががらがらした。

 操は笑う。

「ここではみんな知ってるよ」

「俺は知らない」

「そりゃあ、兄さんは生きてるから」

「……」

「なんでここに来ちゃったのかわからないけど、兄さんが生きてることは確かだ」

 操は前髪をかき上げた。横顔は、いつも見ていたように美しかった。

 朔太郎は静かに腕を上げた。震える手を操の顔に近づけ、そろりとその頬に触れる。触れられた。触れられたことに強く感激した。ああ、この弟の頬にこんな風に触れたのなんて、一体いつぶりだろう。朔太郎は、あたたかい食べ物につめたい飲み物を飲んで口の中で冷やす感じを思い出した。

 操は、なんの前触れもなく急に兄に頬をさわられても、少しも動じずにじっとしていた。まっすぐに目を見つめ返してきて、穏やかな瞳孔の色でただそこにいる。朔太郎は胸がぎゅうと狭くなるのを感じた。生前、どうしてもっと愛情を伝えてこなかったのだろう。もっと、言葉とか文字とかで表現して渡して、抱き締めたりおやすみと言ったりして行動で示して、もっともっと、自分はあなたが愛おしいのだと伝えるべきだった。

 操はそっと瞼を伏せて、自分の頬に添えられている朔太郎の手の平のほうに、首をこてんと倒した。薄く微笑んでいる。操の頭は軽くて、重くて、でも体温はなかった。

「操」

 呼ぶと、操は甘えるように、頬を手にすり寄せてきた。

 朔太郎は続けた。

「お前は死ぬ必要なんてなかったよ」

「……」

「なんであのとき、死のうとしたんだ?」

 操はしばらく何も言わなかったが、やがて両目を開けて、朔太郎の手に預けていた頭を起こすと、回答に迷うような視線の揺れを見せてから、ようやく呟いた。

「俺はいらない子だから」

 その言葉を聞いた瞬間、母親の言葉が蘇ってきた。

——あなたさえ無事に産めれば、それで良かったの。落合には跡継ぎになる長男しかいらない。二人も産むなんて必要も、希望もなかった。

——それなのに……。どこかの神の母でもあるまいよ。あの子どもは基督(きりすと)じゃあない。

「……そんな、こと」

「兄さんがずっとあの家の長男が見る世界を生きてきたように、俺も、あの家の次男が見る世界を生きてきたんだ。自分がどんな立場にいるかなんて、わかるよ」

「……」

「ずっとそうやって振る舞ってきたじゃないか。俺は一度も、長男みたいなことしなかっただろ? 長男を第一に生きてきたし、いつだって兄さんが立派なかしらになるために誰よりも応援してきた」

 確かにそうだった。操はいつも身を挺して朔太郎を守り、庇い、支えていた。自分が朔太郎より先に上に前になんて、一度もしたことがなかった。たとえ、朔太郎がどんなに操は操らしく、操自身のことを優先してほしいと願っていたとしても、だ。

「そんな顔しないでよ、兄さん」

 操が眉を下げて笑う。

「勘違いしないで。兄さんなら立派にやれるって言ってきたのは、本心さ」

「……でも」

「俺はずっと、そういう生き方をしたくてしてたんだよ。兄さんが引け目を感じることはないし、なんていうかな……。兄さんのために生きるのが楽しかったんだ」

「でも、じゃあ、なんで」

 鼻の奥がつんと痛かった。喉も痛いし、目の奥も痛い。

 朔太郎はすがるように言った。

「なんであの日、俺を誘ったんだ? 俺のことも一緒に連れていって、一緒に死のうって。最期くらいは自分で選びたいって言ってたお前だから、まだ、まだわかったんだ、自分から駅に行ったのは。でも、なんであの日で、なんで俺も一緒に……」

「そうすれば、兄さんは俺のこと、忘れられなくなるだろ」

「……え?」

 操は続けた。

「奥方になる人と初めて会った日に心中を図って失敗して死んだ弟なんて、嫌でも忘れない。兄さんなら、俺の死を乗り越えてかっこいい親方になるだろうけど、なったあとも、そんな馬鹿な死に方した弟がいれば、ずっと忘れないでいてくれるだろ? もしかしたら、奥方を見るたびに思い出すかな」

 消え入りそうな声だった。ひやりと冷淡で、刺すように鋭利で、押し潰されそうに重厚で、しかし、恐ろしいほど魅惑的で。瞳はいつものように姿勢良く、まっすぐ前を見つめていたが、はたしてその視線がどこを見ているのかは、わからなかった。こんな操の声は初めて聞いたし、こんな操は、初めて見た。

「お前、なんでそんな……。いや、ていうかまさか、わざと失敗させたのか? い、一緒に死のうって言いながら、最初から、俺は生かして自分だけ死ぬつもりで……?」

 操は否定しなかった。

「なんでそんなこと! なんで……。そんなことしなくたって、忘れられるわけないだろ? 俺のたった一人の弟なのに!」

 必死にそう言ったが、操は釈然としない表情で弱々しく首を横に振った。

「お父さんを見てみなよ。あんまりにも忙しくて、あんまりにも立場が重くて、仕事以外のことは何も考えられなくなってる。俺、ここ数年、自分もお父さんと話したことなかったけど、両親が面と向かって話してるところだって見たことないぜ」

「それは……俺もない」

「おばあさまとか、おじいさまに対してもそうだった。まともに話したこと、あったのかな? 家族のはずなのに、杜氏になったお父さんにとっては、別になんでもない存在になっちゃうんだろうな。町のみんなには尊敬されて、親方あ、なんて呼ばれて親しまれてるのに、家族のことは忘れちゃうんだ」

「……俺も同じようになると思ってんの?」

 操は笑顔で首を振った。

 しかし、朔太郎は納得できずにいた。

「お前はいつも俺のこと、立派な杜氏になるとか、いい親方になるとか言ってたけど、実際、俺よりお前のほうがかしらになる素質はあるよ。俺なんか、たとえ継いだとしても絶対すぐサボっちゃうし」

「兄さんがどんなに怠けたって、俺にどんなに長男の素質があったって、俺が俺である限り、俺は親方にはならない。俺は兄さんの弟で、兄さんに勝てっこないんだから。生まれたときからずっと、俺は兄さんのいない世界を知らないんだ。死んだ今だって」

 いつの間にか、操はいつもの操に戻っていた。

 家族ってなんだろう。きょうだいって、なんなのだろう。生まれてきた順番によって役割が決まってしまったり、人から向けられる視線の種類が変わってしまったり、どうしてそんなに順番が重視されるのだろう。勝てっこないなんてそんな、操まで勝負みたいなことを言っている。どうしてだろう。わからない。あるいは、兄である自分には見えていない段差みたいなものが、操には見えているのだろうか。

 じゃあ、つまり、勝てっこない相手である朔太郎を立てるために次男として利口に生きてきた操に、朔太郎が「お前のほうが親方の素質がある」「俺より操自身のことを優先してほしい」なんて言うことは、残酷も残酷、許されない仕打ちだったのだろうか。

 操が言った。

「死はいずれ、誰のところにもくる。誰もがみんな、この電車に乗ってこの先の最終駅で降りなくちゃあいけないときが、絶対にくる。俺は、それがほんのちょっと早かっただけだよ」

 操は数歩先を歩き、すぐに止まって朔太郎を振り向いた。

「ここで待ってるよ。だから、ゆっくりきて。兄さん」

 操の指差すところを見てみると、朔太郎の爪先が薄く透けて、向こう側にある地面が見えてきているのがわかった。ぎょっとして両の手を掲げてみれば、こちらも同様に色素が抜けてきている。背筋が冷えた。

「これ以上、ここにいちゃあいけない。兄さんは帰らないと」

「お前は怖くないのか。こんなところに一人でいて」

「怖くないよ」

「でも……」

「兄さん、大丈夫? 眠そうだ」

 操の声が、徐々に遠くなっていく。

 朔太郎は焦り、温めるように両手を揉んで擦りつけた。

「兄さんは早く電車に乗って帰らないと」

「操も一緒に行こう」

「え?」

「一緒に帰ろう。俺たちの家に」

 もう、乞うような気持ちだった。

 しかし操は微笑み、首肯を許さない。

「無理だよ」

「なんとかなるだろ。電車に乗っちゃえばこっちのもんだ。俺だってここに来られたんだし」

「俺は行けないよ。行かない」

 背後で鉄格子の軋むような音がして、地面が揺れ始めた。電車が来たのだった。

 てっきり村を抜けて山の方へ進んだと思っていたのだが、操はどうやら、朔太郎を駅へ連れ戻していたようだ。列車が停まる。

「さあ、兄さん」

 操が優しく朔太郎の背を押した。出入口に掲示してある駅名が、ぐいと襲いかかってくる。ここに来たときは見て取れなかった看板の文字が目視できるようになっていたが、そこに書かれている文字は、確かに日本語なのにどうしても読み取ることができなかった。ひらがなを複数重ねたような、ひらがなを左右逆にして歪めたような変な書式で、朔太郎は急に吐き気を催した。もう二度と見たくない。

「操も乗れよ!」

 押されながら車両に乗り込んだ朔太郎を、操は変わらぬ笑顔でホームから見上げていた。

「気をつけてね。六番目の駅で降りるんだ」

「操!」

「大丈夫だよ、兄さん。もうここへは来ないで、立派な親方になってね」

 無情にも、扉は閉まった。そして朔太郎の乗車を待っていたかのように、電車は走り出す。朔太郎は窓を開け、外に身を乗り出した。

「操!」

 列車の音に負けないよう叫んだ。操に届いているかはわからない。

 操は、穏やかに朔太郎を見上げたままだった。電車が加速し始めた。

「操」

 黒い学生服がどんどん遠ざかる。

「操……」

 視界はぼやけ、ぐにゃぐにゃに歪んだ。

 かんかんかんかん。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 朔太郎は誰もいない電車内に膝をついた。

 そうして、ついにこぼした。

「俺も一緒に死にたかった」

 

 

 

 それからどうやって帰路についたか、すっぽり覚えていなかった。気がついたときには通常の様子の電車に揺られ、実家まで帰ってきてしまっていた。

 深夜。でんと構える酒造店の正門をくぐりながら、東京へ帰るはずだったのになあ、なんて、変哲のないことをぼうっと考えている自分に驚いた。ついさっき起こったであろう出来事は、あまりにも非現実的すぎて、でも、操の笑顔や匂いや頬の感触はあまりにも愛おしすぎて、わけがわからず、もう一切の思考を止めてしまうしか、なす術がなかった。

 朔太郎はそれから、みなが寝静まった屋敷の長い廊下をひとひとと歩き、操の部屋へ行った。

 そして、当然の習慣のようにそこで寝た。

 

 

 

    六

 

 

 

 それからの落合朔太郎は、見るも無惨な様子だったと言っていい。

 朔太郎は東京の大学へ戻らず、夏が終わりに近付いても、屋敷に居残り続けた。しかし、だからといって杜氏の仕事を父に学ぶわけでもなく、家業を手伝って働くわけでもなく、ただ、そこにいた。操の部屋に閉じこもり、一歩も外へ出なかった。宇賀神が何度食事を運んできても一切口にせず、徹や臼井が励ましにやって来ても襖を開けず、母親である落合の奥方が呼びつけても、決して姿を見せなかった。

 唯一、麦子にだけは口をきいた。それでも稀に、だ。麦子は、祖父である庭師の綿貫がこっそり屋敷に通してくれる隙を使って、操の死以降あきらかに生命の息吹がない朔太郎の調子を、いつも見守っていた。心底、心配していた。

 ある日のことだ。残暑。逢魔が時。

 麦子が普段のとおり操の部屋にそっと近寄り、ぴしゃりと締め切られた襖越しに声をかけると、やっと朔太郎の声が聞こえた。

「操は生きてる」

 確かにそう言ったのだ。麦子は自分の正気を疑った。

 一体なにをと思い、襖に耳をくっつける。

「操は生きてるんだ。俺は会った」

「お、お兄さん? 大丈夫ですか? 操ちゃんが何って……」

「操は生きてる」

「……ごめんなさい。あの、操ちゃんは……ああ、どうしよう。どうしたら」

「俺は操に会ったんだよ。駅の向こう側で。体にも触れられた。生きてるんだ」

「駅? お兄さん? 大丈夫ですか? 私の声、聞こえてますか?」

「連れ戻さないと。駅の向こう側にいるんだ。俺を待ってる。そう言ってた」

「……お兄さん、お兄さん? ああ、誰か……」

「あの駅に行かないと。電車に乗らないと」

「お兄さん! 誰か、誰か来てください! お兄さん!」

 操の部屋の中から突然、慌ただしい物音が聞こえてきて、それはまるで大急ぎで荷造りをして部屋を走り回っているような、または気が動転して暴れ回っているような、そんな音だった。

「なにしてるんですか? お兄さん! ここを開けて!」

 恐怖でがくがく震える指で、爪をなんとか戸の隙間に突き刺して開けようとした。びくともしない。操の部屋に鍵がかかるなんて、誰も知らなかった。

 麦子は、涙がだらだら流れ落ちる顎を拭って、声を振り絞って助けを呼んだ。朔太郎は一体どうしてこうなってしまったのだろう。操の死を受け入れられないあまり、おかしくなってしまったのだろうか。

 そのうち、騒ぎを聞きつけた女中や店の従業員が駆け付けてきて、麦子と一緒になって戸を開けようと奮闘した。その間も、落合の姓を持つ者は誰一人として来なかった。

 日は落ちた。夏の終わりを告げるように、蝉の死骸が中庭の松の幹から落ちた。

 朔太郎は、操の部屋の中で暴れ続け、ふとした瞬間に唐突に戸を開けた。そして外へ出てきた。その頃には、もう宵の刻になっていた。疲れ切っているうえ、恐怖が勝った麦子には、朔太郎を止めることはできなかった。彼は別人のようになっていた。すらりと高かった身長は猫背で縮み、髪や髭は伸びほうだいで、その隙間からかろうじて見えた瞳は、瞳孔が開きっぱなしでぎょろぎょろしていた。

 朔太郎は周囲には目もくれずに、歩き去った。麦子だけではない。誰も何もできなかった。

 それから朔太郎は、ふらつく足取りで母屋を抜け、店舗を横切り、落合酒造店の正門の手前までたどり着いた。そこで、何年ぶりか、父親と母親の姿を見かけた。車から降りてきたところだった。運転手に扉を開けられ、地面に足をつく。顔を上げる。両親が揃っている光景に、朔太郎は思わず立ち止まった。かさかさの唇が力なく開く。

「…………」

 何かを言う前に、両親の間に新たな人影が現れた。後部座席から降りてきたその人は、見たことのない青年だった。朔太郎と同い年ほどに見えた。しかし、朔太郎より気力に満ちあふれ、目には野望が灯り、足取りには迷いがなかった。

 店舗で働く若いアルバイトが、こそこそと噂話に盛り上がっているのが聞こえた。

「あの人が、そう?」

「次の親方になる人?」

 それは、さんざん朔太郎がされてきた噂話で、さんざん朔太郎に向けられてきた視線だった。矛先が変わったらしいそれは、こう続いた。

「ちょっと聞いた話なんだけどさ、なんか、落合さんの長男の朔太郎さんっていう人、もうずいぶん人前に出てこないんだって。奥方がなにを言っても、ずっと部屋にこもっちゃってるらしくて。次男の操さんは事故で亡くなっちゃったから、落合家にはもう誰も親方を引き継げる人がいないって。それで、親方が、別の後継ぎをすぐ見つけてきたらしいよ。落合の息子じゃなくていいんだったら、親方になりたい人なんていっぱいいるだろうからね」

 世界から一切の音が消えた。がらがらと、足元が崩れ落ちていくのを感じた。

「…………」

 朔太郎は憑かれたように再び歩き出した。

 親よ。どうしてあなたたちは、子を所有物のように扱うのだ。どうしてひとときもその首輪を放してやれないのだ。子に自分と同じだけの命の重さがあり、同じ人の権利と感情を持っていると理解しているのであれば、その言葉や表情や行動で、子の人生の展望に対する希望をひねり潰したりはできないはずだ。子はお前の駒ではないのだ。

 親よ。

 俺はじゃあ、一体なんだったんだ。俺は誰だったんだ。

 

 

 落合朔太郎が電車の走り去る線路に飛び込んで亡くなったと知ったとき、麦子は全てを悟った。夏。雷の夜だった。

 

 

 

    結

 

 

 

 操は、ヒトに近い恰好をしているある人物に、干芋のような物を手渡された。受け取ると礼を言い、慣れた動作で頬張った。

「兄さん、死んじゃったみたい」

「…………」

「こうなったら、お願いしてもいいかな? 本当にできるならの話だけど……」

「逕溘∪繧檎峩縺吶?」

「うん。昔に生まれ直したいんだ。やり直したい」

「縺?▽縺セ縺ァ譎る俣繧帝繧具シ?」

「いつ頃に生まれ直したいかって?」

 操は顎に手を添え、考えた。

「俺が長男になったりしないように、兄さんが生まれたあとだったらいつでもいいけど。そうだな……。じゃあ、お母さんが病で入院してる時期にしよう。なんで妊娠したのかわからない子どもなんて、気味が悪いよな? そうすれば、きっとお母さんもお父さんも、俺のことを邪険にする。弟のくせにうっかり後継ぎにされることもない」

「…………」

「兄さん、次もここに来ることにならないといいけど。俺と会っちゃったら、また俺が生きてるとか言い出して、またおかしくなって他の人に後継ぎをとられて、自殺しちゃう。そうならないように、兄さんには立派な親方になってもらわないと」

「縺ゥ縺?@縺ヲ蜷帙′縺昴%縺セ縺ァ縺吶k縺ョ縺九>」

「そこまでする理由がわからないって?」

 操はぷっと吹き出してそう言うと、続けた。

「俺は、兄さんに忘れられたら悲しくて嫌だけど、どうせいらない子だから、役目を終えたらさっさと退場したいんだ。でも兄さんには、惨めに死んでほしくない。ちゃんと落合の長男として生ききってほしい。兄さんがそうできるようにするのが弟(おれ)の役目だろ?」

 操は笑った。

「大丈夫。今度こそ全部うまくやるよ」

 次の瞬間、操は産声を上げていた。宇賀神が赤ん坊を抱き、二歳の朔太郎に見せにいく。

 

 平成最後の夏は終わらない。

 

 

 

 

  終

 

【集英社ノベル大賞 二次選考通過作品】