パノプティコン・レミング
:本編
:サイドストーリー
【黒澤和音と仁平聡】
「ごめん」
「いま弾き語り生配信してる」
「俺んち遊びに来たていで入って来て」
これから帰る、と連絡すると、そんな調子の聡からのメッセージが、ラインの画面上にポンポンポンと浮かんできた。ゼミの仲間達と夕飯を食べた帰り道、信号待ちの間だった。和音は少し考えた。コンビニへ寄っていくことにする。そこの店員はこちらを知っていたようで、会計の際に「新曲のMV見ました、めっちゃ好きです」と声をかけてきてくれた。和音はマスクの下で微笑み、礼を言った。
非常に冷え込む夜だった。電車は混んでいた。出入口のすぐ近くの手すりにもたれかかり、エアポッズを両耳に入れ、スマートフォンの画面を明るくした。聡の公式ツイッターを見ると、確かに生配信のお知らせが投稿されていた。URLをタップするとユーチューブアプリに飛んだ。
画面の中は暖かそうな居間だった。画角内に収まる範囲には和音の私物は見当たらない。配信を始める前に聡が片付けたのだろう。聡はアコースティックギターを抱えた胡坐でカメラの前に座っていて、今はちょうどUVERworldの「美影意志」を歌っているところだった。懐かしい。チャット欄には様々な楽曲のリクエストが流れている。目の前のローテーブルには、裏返しにされた聡のスマートフォンと、彼がよく使うお気に入りのピックがふたつ、そして湯気の立つコーヒーが置いてあった。あーあ、また眠れなくなるじゃん、と思いながら、和音は電車の窓に頭を預けて瞼を下ろした。
恋人との幸せな日々を謳う歌詞。甘い歌声に悴んだ指が温まるようだ。
歌詞をなぞりながら、俺そんなこと言ったっけ、と一瞬思ったが、そうだこれは聡の曲ではなかった。
アコースティックギターの音が止まった。チャット欄の流れが速くなり、彼の歌を褒める感想で溢れた。和音は悪戯にそこに書き込もうかと思ったが、思考を違う方向に切り替え、ラインを開いてメッセージを送りつけた。すると、生配信中の画面内で聡のスマートフォンが通知を鳴らした。
カメラに向かって喋っていた聡が、話し続けながら何気なくそれを確認した。チャット欄のファンの数人が「ライン誰から?」と、知りたがる。聡は軽く咳払いをした。
「誰だと思う?」
と、聡。和音は流れるコメントを眺めた。ゆめだったらいいな、とメンバー内の交流を見たがる者、彼女? と聞く者、仲の良い他のバンドのメンバーの名を言ってみる者。聡もチャットをしばらく眺めてどう答えるか考えているようだったが、結果「彼女ではない。ただの和音」とだけ言った。
そのただの和音に向けて恥ずかしい恋愛ソングを書いたのはどこの誰だよ。和音は早く帰ろう、と思う。確かに彼女ではないけれど。
マンションに着いた。そして玄関を開け、「お邪魔しまーす」と演技を始めた。
居間の扉を開けると、聡はちょうど米津玄師「灰色と青」を歌い終えたところだった。
「ほら、言っただろ。和音来るかもって」
「なんか生配信してるっぽいね」
和音は配信のことなど知らなかったふりをして隣に座った。
「はい、差し入れ」
と、ローテーブルにコンビニの袋を置く。聡はガザガザと中身を見た。その横でチャット欄を見てみると、和音が登場したことに喜ぶファンのコメントがたくさん流れていた。
「こんばんはー」
和音はカメラに向かって手を振った。
「大学の帰りなんだけど、聡が生配信してるみたいだったから寄ってみた」
聡もコメントを拾い始めた。
「ゆめは来ねーよ。多分あいつはもう寝てる。健康女児だから」
「俺はここの近くに住んでるからね」
ていうかここに住んでるんだけど。
和音のほうは、一緒に住んでいることなど公表しても問題ないと思っている。同じバンド内のメンバーで同居していても何も奇妙なことはないし、実際にお笑い芸人だって仲間で同居している人は多いではないか。しかし聡は聞かず、どうしてもそれを隠し通すつもりらしかった。
この話題を振ると聡はいつもこう言った。
「そりゃ隠すだろ。公表するときは、俺の覚悟が決まったとき」
聡はこういうところで決して嘘をつかない。
仁平聡という男に出会う前、元アルバイト先の飲食店で出会ったゆめと話している中で、高校時代にはお互い軽音部に所属していたという共通点が不意に見つかり、和音は嬉しい気持ちだった。さらに聞けば、ゆめは今もギターを趣味で続けているという。
「黒澤くんさあ、うちらの学祭来ない?」
一年生の秋、ゆめの通う大学の学園祭が来週に迫った頃、一緒に遅番をしていた最中にそう言われた。
「学祭? そっちは来週だっけ」
「そう。日曜の夕方にライブステージあるんだけど、うちそこで一曲弾くんだー」
今思うと、その時にはすでに聡とゆめの間では本格的に活動ができるバンドを発足する話が上がっていて、そのメンバーを探している矢先だったのだ。
学園祭当日、和音はその日の午前中もバイトのシフトが入っていたため、午後から一人でふらりとゆめの大学へ向かった。彼女の通う学校は私立で、名も有名な大学なので、学生の友人らや入学を志望する高校生、学生の親戚や通りすがりの住民など、大勢の人で賑わっていた。夕方、日が落ち始めると、舞台が設置された広場に少しずつ明かりが灯った。和音の姿を見つけて駆け寄って来たゆめの話だと、彼女の出番は終盤で著名バンドのカバー曲を披露するらしい。軽音サークルに属しているわけではないので、お金を払って立たせてもらう運びになったようだ。
辺りはもうすっかり暗い。やがてゆめの出番が訪れた。まずは歌の入らないインストゥルメンタル。和音の座る場所から見ると、ドラマーの姿はほぼ死角で窺えず、ベーシストに至っては姿はしっかり見えたがお世辞にも上手いとは言えず閉口した。
ゆめだけ巧くて逆に浮いているなあ、と寂しい気持ちになっていると、そしてボーカルの男性が登壇した。
彼の立つ周りだけ違う色の空気のようだった。締まった体型で高い身長、マイクを片手に、緩くパーマした輝く金髪を邪魔そうにかき上げると、優しそうでは決してないが悪者顔でもない、鼻筋の通った丁寧な顔つきが観客席を見回した。圧倒的な存在感。どうしてこんなところで歌っているのかと思うほど魅力的で精良な歌声を持っていた。
和音はそのとき何かを直感し、無意識に拳を握り締めていた。
多分俺、あいつと一生いることになるな。
「中沢さん!」
ライブ後、人混みを掻き分けてゆめの元へ駆け付け、和音は呼吸を整えながら訴えた。
「あのボーカルの人、名前なんていうの」
「え、聡のこと?」
「さとし?」
「仁平聡。うちら幼馴染なんだよね、幼稚園からの。あいつんち音楽一家でさ、お父さんはなんとかかんとか音楽協会の仁平会長で、お母さんはめっちゃ有名なピアニストで――」
「人の個人情報ペラペラ話すな」
聡が姿を現した。
和音はつい後退りしてしまった。体格はそんなに変わらないはずだが、彼には謎の威圧感がある。
「あ、聡。この人が話してたバ先の黒澤くん」
「どうも……」
得意の笑顔も上手に作れなかった。
聡は煙草を咥えていた。和音に軽く会釈すると、ゆめに向かって「ベース弾けるって人?」と聞いた。和音から答える。
「弾けます、俺、ベース」
倒置法も甚だしい。なぜ自分が緊張しているのか理解できないまま、話を進めた。
「高校までやってたくらいだけど」
「今はやってないの」
「あんまり」
「へぇ」
すると、ゆめが堪えきれなかったかのように口を挟んできた。
「うちら、一緒にバンドできる人探してんだよね。さっきの演奏ウケたでしょ? 周りにはあんな奴らしかいないからさぁ。上手くて、やる気がある人探してる」
「ゆめ」
聡は「目の前のこいつ上手いかわからんだろ」という顔をしていたが、そして和音自身も演奏技術に自信があるわけではなかったが、今を逃してしまったら非常にまずいような予感がして「ちょっと弾いてみていいっすか」と言わずにいられなかった。
最初から聡のお眼鏡にかなうわけなどなかったが、ブランク期間を埋めるように練習を重ね、ゆめと一緒に聡の家に通いつつ日々弦を弾き、徐々に楽器の実力と二人との関係性を構築していった。
聡がいつから和音を恋愛の対象として見始めたのかはわからない。和音のほうも、聡への感情がどこまでが何でどこから何になったのか、噛み砕けてはいなかった。
しかしどうやら勘違いではなかったようだ、と、最近の和音は思っている。おそらく自分は、一生聡の傍にいることになるのだろう。それはバンド仲間としてなのか、その他の何かの形なのか、はたまた両者ともなのかは想像がつかない。
「新曲、どう思う」
初のワンマンライブを控えたある日、珍しいほどの直球ラブソングを書き上げた聡が、帰宅して二人きりになるなり和音にそう問うた。
「どうって。相変わらずすごいよ」
同居している和音にも完成まで聞かせてくれなかった曲だ。
しかし、聡はその返答では満足いかなかったようだ。
「いや、もっとちゃんと聞けって」
「聞いたよ。もうさらったし。弾いてみせよっか?」
「違う、歌詞」
聡はぶっきらぼうにそう言い残すと、突然自分の服についた花粉が気になり出したかのようにそそくさと風呂場へ向かって行った。
和音はひとり部屋に残された。
「歌詞?」
独り言ち、いつも聡が作曲などの作業をしている机に腰掛けた。今日は楽曲の完成と同時に慌てて家を出たのか、机上のデスクトップパソコンの前は紙が散乱しており、歌詞についても何やら奮闘した様子が見て取れた。
音源を流し、紙の右上に完成と書かれた用紙を手に持ち、言われたとおりじっくり歌詞を読みながら聞いてみた。なるほど、と思う和音と、なんて曲を書いてしまったんだこいつは、と思う和音がいた。つい額を押さえた。今後、この曲を無心で弾けないじゃないか。
風呂上がり、聡は煙草の代わりに歯ブラシを咥えて、くたびれたスウェット姿で顔を出した。和音と目が合うと足を止め、咳払いをする。
「ちゃんと聞いたよ」
「……ふーん。で?」
「一生ついてくって言ったじゃん、俺。もしかして麻子ちゃんのこと心配してる?」
「心配?」
心配ではない、と、しかめ面で濡れた髪をがしがしかき混ぜる聡の口から歯ブラシをスポッと抜き、和音は聡にキスをした。
「麻子ちゃんにはこんなことしませんが」
と、歯ブラシを定位置へと戻す。聡の唇から歯磨き粉がまぬけに垂れた。