【ひとこと日記3】
(2024/3~ 主にtwitterより)
この国は家父長制大好きでこのままどこまでクソになるのか知らねえが抵抗したり怒ったりしている人間がいることを消させはしないからな。絶対に黙るもんか。私がいま生きてるのは運良く父から逃げられたからだ。今日のプレイリストは家父長を燃やしているレドベルのChill Killと「お前の妻になんかならない」アイドゥルのWifeだよ
JKローリング氏の一連の言動がトランス差別であると公に認められたか。私はずっとあのファンの言葉を思ってるよ。
「大切なのはどう生まれたかではなくどう選択するか。ダンブルドアはあなた(JKR)を恥に思うだろう」
『ニモーナ』、様々名シーンがある中でも私は「なぜ変身するのか。普通の女の子でいれば楽じゃないのか」と言われたニモーナが「楽って誰が?」とすぐに反論して「変身していると生きている感じがする」と答えた場面が一番印象に残っている。”普通の女の子”でいることで楽なのは一体誰なのか。本来の姿、自分が居心地良いと感じる姿でいることがどれほど人を救うか。そして今この瞬間も望む姿で堂々とできない人がどれほどいるか。
自分が自分自身に向ける好奇の目が救われた感じがした。
ヤングロイヤルズ最終シーズン、配信済の話数まで見たけどここへきて経済格差や君主制への批判を具体的な表象で見せてきたことにこれをどう結ばせるのかさらに気になる。
アウグスト役の方の演技は本当に毎回目を見張るものがある。ホモソノリの悪友の中でそれでも寂しい、自分が目指してきたものをいま獲得したはずなのに違和感と怒りが抑えられない、サラの前で一介の少年に戻る姿の演技が本当に素晴らしい。
ヤングロイヤルズファイナルシーズン全て見たけど、本当に本当に最高だった。最終話、シーモンが車から降りてきた段階から泣き始めてしまい最後のフゥー!×4で大号泣した、このドラマに出会えて幸せだと心から思った。ありがとうございました。
「誰も生まれは選べないが人は出生で全てが決まるのではなくどう選択するかが重要」「一度過ちを犯した人にも挑戦の機会は与えるべき」……どうするのか不安だった君主制問題、「君主制を支持してふさわしい家に生まれるのが重要だと信じるなら、その人が後継者だ」というヴィルの台詞に全て詰まっていた。
アウグストのサラへの感情は愛だったとは思う。が、サラは恋愛ではなく友情を選んだ。フェリスも、当人同士でケアができないことや消費で問題から目を反らそうとする友人に辟易して「話ができる」サラを選んだ…インタビューでもサラ役の方が話していたけど、ADHD当事者を起用したことも素晴らしかった。
エドウィンの話すように、ヤングロイヤルズというドラマはヴィルとシーモンのある瞬間を切り取っただけに過ぎなくて、これからも二人の物語が続いていくことが重要。それはシーズン3の最後でやっと対話ができるようになったヴィルと両親の関係性からも、最後のカメラ目線の絶妙な表情からも読み取れる。
シーズン1の1話の時点から作り込みすごいなとは感じていたけれど、キャストと制作陣の仲が本当に良くて特に大人達が幼い役者達を尊重しているのが『ヤングロイヤルズフォーエバー』からもよくわかった。アドリブが出やすい状況だったというのもこの作品の完成度に貢献しているのだと感じた。
ヴィルの変化の兆しを見せて終わらせたのと一緒に、それでもなお社会的弱者が見えていない生徒達や変わりきれていないを同時に描いたのもうまいと思った(ロシュをかなり最悪な態度で扱ったステラ達とか、ニルスのカミングアウト時に真っ先にアウグストの様子を窺ったヴィンセントとか)。いやあしかし、ここ数年で一番のヴィランはステファニー・スー演じるジョブ・トゥパキだと思ってたけど、アウグストもかなり切れた悪役だった。アウグスト役のマルテになにかしらの賞をあげてほしい。
(物語の)作中で異性愛描写があってもバイとかパンとかの可能性があるのは当然ではないか? ヘテロと決めつけるのは逆になぜ。異性婚してたってバイの場合もある(自己紹介)
アロマアセク設定のアラスター(『ハズビンホテルへようこそ』)に声をあてている声優さん「魅力的であるためにセックスをする必要はない」
ヴァージニア・ウルフが『自分ひとりの部屋』で書いているように「なによりも自分自身であれ。他のひとたちに影響を与えようなどと夢見るのはやめてください」というのは真実だがそこから逃れようにも難しいのが世俗であり(新自由主義的な資本主義社会でその逃れは可能か?)
家庭の暴力と依存から離れて社会構造の不均衡を勉強した大人になった椿木雪が自分の半生を振り返ったとき何を思うのか、私はそこを考えるとこのキャラクターがどうしようもなく愛おしく思えるのだけど、それは自分に違う人生があったことすら知らなかった子どもへの憐れみなのか、自分自身の分身への愛なのか。
自分は被害者だったという気づきの先にあるものはまず暗闇だよ。椿木氷に対しての妄信と、彼含めた家族と一緒にいたときの自分の状態をどう処理し直したのか、そこを思うと二度とこんな子どもを生んではならないと思うこの社会は。
椿木氷が両親の代わりに弟を養っていたり、大人の代わりに弟を面前DVなどから庇っていたりしたこと、それによって自分の存在価値が弟に依存していたことはヤングケアラーだったと言える根拠だけど、ケアの面で言うとこの兄弟は完全に相互依存していたので、断ち切るには本当にどうすればよかったんだろうか。相互のケアは本来、それが健全な距離であればメンタルヘルス的にもいいものなのに、バウンダリーがボロボロなうえ相互依存の関係にさえ上下があったので全く良い作用がない。
今だから冷静に言えるけれど、椿木氷の一番の狂気は雪をああいう雪にしてしまったことだし、椿木雪の一番の狂気は氷の極端な選択を前にしても心から笑えることだよ。すごく若いと今は思う。このキャラクター達のことも、このキャラクター達を作った過去の私自身のことも。
差別されない側には差別構造は見えないし、忖度される側は忖度があることを知らない
フィクションの要素として暴力を好みながら現実の暴力を否定することは両立する。物語の中で権力の持つセクシーさを描写しながら権威主義を批判することは両立する。「扱うな」という話ではなく「どう描くか」だという視点にたどり着くまでとても迷ったし、試行錯誤もした、時間もかかった。頭では理解していても自分の感情の動きから目を反らしたり、自己嫌悪に陥ったり、過去の自分を責めたりもしてきた。たくさん。
又吉さんが「本屋に行くと買うべき本の表紙がぱーっと輝いて見える」と言っているのを見て(それって本をジャケ買いするってことですよね?私もようやりますが……)と心の中でアンサーする #読書界のDIVA
こんなに小さい子どもでもデモに参加して「正しいことをする」と言える国の教育って。
多くの日本人の政治への向き合い方を見ているとなんでそうなの?! と憤慨することばかりだけど、国の定める教育を受けるだけだとそうなってしまうのは当然だから、変わるためには自ら気付いて勉強しないとならない……。普通に育つだけで保守的な思考になる国。
創作物も政治的であるのは当然なので、(ドラマのみならず)様々なフィクションに対する熱く真剣な態度は民主主義への本気度のように思えることもある。そういった意味でも韓国のエンタメはおもしろい。
そもそも忖度にまみれて資本主義にばかりすり寄る日本のエンタメ界隈の姿勢は尊敬すらできない。政治から目をそらしながら「世界で成功する」など無理なのでまずはそこに向き合うべき。
自己責任論やウィークネスフォビアからの解放は人生の助けだと思うけど、その気付きに出会う機会がこの社会ではあまりにも少ない。で、じゃあその機会を増やすには? と考えて突き詰めていくと、結局自民党を政権からおろすしかないという結論に至る。
差別も暴力も構造の問題なのだから個人談におさめていないで「社会や組織をどう再構築していくか」の話をしろよーーー
「政治に触れない」「政治的要素がない」のはそういう政治姿勢なので、政治と関わらないというのは無理。政治は日常。何度でも言う。
図書館で借りた本に誰かがしおり代わりで使っていたと思われる犬の写真が挟まっていて、こういう瞬間のために人生をやっていると思う。
好きな人の好きなもののことは大抵当然好きになってしまうから追うのは勇気がいるよね。私はハマスホイが憧れたホイッスラーも好きだし、ラフマニノフが尊敬していたチャイコも好きだし、だからこそまだ三島の金閣寺が読めていない。笑
このあいだ書店のトークイベント「ヤングケアラーの哲学」で中村さんと村上さんが仰っていたけど、最近よく見かける「ケア」はフェミニズムの文脈で語られ出した狭義な意味合いの「ケア」だ、という話が以来スッときている。ケアについて読んで見て納得しつつ、少し「そういうものかな?」と引っかかっていた部分を、思い出しつつ同時に溶かされた感じ。自分の感情は大切にしたいけど、納得というポジティブに引っ張られて小さな違和感を忘れてしまうの、悔しいな。
いずれにしろケアの書かれ方については結構普段からモヤッとする部分が多い。私の勉強不足と、多分個人的な経験から。
図書館も博物館も美術館も本屋もたべっ子どうぶつも伊右衛門特茶も、人権より消費が優先されて社会がどんどん崩壊していく。資本主義の加速を見直すフェーズはいつくるのだろう。
資本主義を批判しながら「推し活」をするのはかなり気が滅入るよ。
子どものために戦えない大人は大人じゃない。大人は綺麗事を言って不正義に怒れ。
本を買うという行為がストレス発散やリラックスになるというのは私には強くあって、それをしないと悶々とするターンがきてしまう。ただ店内を見て回るとか図書館へ行くとかではだめで、なぜ購入に限るのかという疑問は、私がじっくり向き合わなくてはいけない点。
(TRPの話)ハッピーのハイタッチも雁首揃えた企業のPRも、年々苦々しい気持ちになっていったよ。初めて行ったのは学生の頃で、あの場に足を踏み入れた輝かしい瞬間は今でも鮮明だけれど、今年はついに行かないという選択を取った。今後も運営が変わらなければ行かないだろう。
割と信頼していた同年代の同僚にお酒の席で「ハイデガー好きな女とは付き合いたくないな(笑)」と言われてからずっとその一言が頭から離れない。民法上の女性の立場などあらゆる方面からの状況を踏まえて女性のパートナーと事実婚をしたと話していた人だけど、そうやって他人のジェンダーを決めつけた上で勝手にジャッジする・自分を他人をジャッジできる立場だと認識している人なのだという失望、他人の思考や好みを尊重できない人なのだというショック、信頼していた人からのそういった軽い発言、発言してしまえる自己認識と責任感の薄さへのショック。そもそも、あなたは異性愛者なのかもしれないが目の前に女のような生き物がいるだけで付き合う付き合わないの思考になることが信じられない。そこに相手へのリスペクトはあるのか?何度も思ってきたことだが仕事の場で自分の性別をいちいち意識させられたくない。マンスプ傾向は以前からあったがそれに目を瞑ったとしても信頼できる人だったのに。
務川さんのピアノの追っかけをさせてもらってるので年に3、4回は演奏を聞きに行くから、おや今日の務川さんは珍しくトークで上がっていらっしゃるな…などと勝手に感じるようになってきた。演奏は毎回必ず最高級。甘美な孤独や憂鬱の底に眠る意思みたいなものを音で表現するというのは一体どういった技術なんだろう。または客席がそう受け取ることのできる環境か。私の葬式では彼のピアノをBGMに流してほしい。ラフマニノフかラヴェルで頼む。
AIと共存するつもりならそのシステムに仕事をどこまで任せてどこから人の手で行うのかその線引きを冷静に判断しないと。まんまと資本主義に絡め取られるようではやがて崩壊する。AIの倫理観は人間の倫理観。
ちゃんとセクシャリティに言及がある百合やBL最高ー!そういうお話を書いてくれる作家さんの小説や漫画は全部読みたくなる。ずっと思ってるけどそこに触れられないまま話が進むと読者としてどういう判断をすべきなのかわからなくて気になってしまいストーリーに全く集中できない。前に話題になった「突然同性愛者になる」の件にも繋がる部分…
いわゆる「百合」「BL」だけでなくクィアロマンスの物語に触れると余計に実感する。もうヘテロロマンスを積極的に読んだり見たりすることは全くと言っていいほどないんだけど笑、日本製の小説や映画やドラマにもセクシャリティにきちんと言及する物語が増えてきて喜ばしい限り。百合やBLにも徐々にではあるが浸透してきているのは感じるので安心して読めるお話に出会うと心から嬉しい。
自分のしてきた努力をどれほど信じていようと、そもそも生まれた環境に経済基盤と文化資本と学ばせてくれる保護者が揃っていたから努力することができた、という点を軽視していると見落とすものは多い。一番学びたい時期に親が殴り合っていたり家族の介護をせざるを得なかったりする環境もあるんだよ。
毒親育ちは元凶から物理的に解放されていようと、「普通」の家庭出身者がマジョリティな社会にいると日常のふとした瞬間にあ、この人達とは見てる景色が違うんだと思わされて足元が揺らぐときがある。答えられない、答えたくない、答え方がわからない家族に関する話題をかわすことばかり上手くなる。
国民を守ることを放棄した国で、赤木さんのような方すら存在を抹消しようとしている国で、戦争の準備を進めているこんな国で、公務員になる道に魅力を感じる人などどんどん減っていくだろう。民は馬鹿じゃないから有事には前線に立たされるか首を切られるかすることは簡単に想像する。
幼い頃、政治家は正しいことを行い警察は正しく悪を取り締まり検察は正義でもってその権限を行使していると信じていた。年齢を重ねて自分の頭で社会に向き合うにつれ、それは幻想だったと理解して、同時に人間という存在そのものに失望していった。それでも諦めないのは人としての矜持。どうあるか。
政治の話、選挙の話する人大好き!
好きな人が積極的に発信してくれるともっと好きになる
私は自覚的に政治の話をする人が好きで尊敬している。人権も選挙も戦争も消費も物価高も気候変動もそれこそ今日出た本も配信中の映画の種類も今夜のご飯のメニューも日常全てが政治的であって、誰も避けられはしないのだけど、それを自覚して向き合っている大人を尊敬している。自分もそうでありたい。
選挙割を実施する服屋が好きだし、フェミニズムを歌うアイドルが好き、公式アカウントで虐殺反対と呟く本屋が好きだし、好きな小説家の主張のおかげで私は死刑制度反対の立場になった。なにかしらの表現者であれば政治的姿勢を自分の作品に滲ませる人が好き。そういう人を応援している。
人を踏んでいることに自覚的になろう、踏んできた部分は改善しよう、踏まないようにしようという動きを「そういう時代だから」の一言に集約して何も向き合わないのいい加減にしてほしい。
何かしらの暴力や加害が発生して被害者が出た場合や被害者を出す恐れがある場面で、あまりにものんきに構えている人が多すぎるのでは?前者であれば直ちに被害者のケアや支援に取りかかって加害の再発防止策を講じることが必要だし、後者であれば最悪を想定しながらできる限りの手法で未然に防ぐ必要があるのに、当事者や現場の声を無視したりさほど確認もせず見切り発車してしまったり。性暴力を含むあらゆる暴力は、肉体に直接的に被害が及ばないものであろうと生死に関わる大問題なのに矮小化されすぎているように思う。認識が甘い
割れた陶器とか、押したらへこんだまま戻らない素材のスポンジみたいなイメージがある。ごめんね!傷ついたよね、忘れてね!でリセットなどできるはずもなく、被害者はおそらく一生その傷を抱えて生きていくのに、本当にのんきだよ。
社会構造的に自分のポジションは人を踏んでいる立場である、踏む恐れが大きい立場であるという認識がないのか。ポジションは相対的で切り口ごとに変わるもので、だから誰もが人を踏んでいる、踏む可能性があるのに。
過去の自分を思い返して「未熟だったわ-」と思えるの一見安心するけどちょっとこわい。自分の中だけの尺度で方向もぶれるから。
トロイ・シヴァンやケラーニ、リルナズXなどのゲイによるゲイパフォーマンスが大~好きなので、カムア後のハヌルもゲイパフォーマンスをステージで楽しんでくれたらいいな!
カムア以降様々なLGBTQ+関連イベントに招待されるようになりレインボーフラッグのもと楽しそうに歌うハヌル最高だね、、それを自宅で見てる空PD。
先日マーク・ラファロが出演している映画を見返すという贅沢な時間の使い方をしたがギャンギャンにパレスチナ支持していた姿を見たあとだと100倍増しで魅力的に思えるな。権力の持つセクシーさを演じるのが巧い。マーク・ラファロが警官役を演じているのを見ると、その暴力性にはっとするのと同時にどうしても惹かれる。
結婚の話をする=ヘテロだと打ち明けているようなもの、という言説を見るたび異性婚の選択をしたバイの存在をどうか透明化しないでくれと思う。異性と付き合ってもバイはバイ、異性とセックスしてもバイはバイ、異性と結婚してもバイはバイだよ。
共産党に対する発言でその人が日頃どれくらい政治に関心を持っているかが想像つくようなところがある。党名を出しただけで「あぁ…」みたいに半笑いする人とは私はそれ以上政治の話を続けるのが難しいけど、前に「共産党は夢を語りすぎなんだよな」とこぼした先輩とは今でも会うたび政治の話をしている。私は大人こそ大真面目に夢を語れと思ってる。最後に愛は勝つじゃないけど、紆余曲折あったがボロボロしながら各人の善が寄せ集まって最後にはついに正義が叶うみたいなものを、人間の善性をこんな世の中になろうとまだ信じてはいるので、馬鹿みたいに怒るし水を差すようでも口を挟むし熱く夢を語るよ。
冷笑を崩さずあたかも自分が優位であるかのような姿勢でいたり、開き直って不正を続けたり、他者を貶めて気持ち良くなったり、倫理から外れた行動がかっこいいと言わんばかりの荒廃が満ちているのを見ていると、それらに抗い苦しみながら善良であろうとすることの「正常性」とは何なのかと思う。
今日の新刊とかこれこれ入荷しましたとアナウンスしてくれる本屋のSNSや新聞の書評の本紹介棚を作ってくれる書店などの「本屋のリアルタイムの動き」が本当に助かる 書店員の方々に大感謝
ふとした瞬間にaftersunを思い出してはギクッとする
こんな映画は他にない、、
疲労、「疲れた…今すぐ寝たい」というときと「疲れた…本読みたい」のときがある
人は生まれた瞬間からすでにある社会規範の刷り込みを受けて育っているからこの社会が当たり前としていることは個人レベルにも無意識に当たり前となってしまっているんだが、そこの理解と自覚がないと差別的な言動を指摘された際に自分の無知を揶揄されたように感じ怒りを持ったり反発したりしてしまう。それは差別だからやめろと言われたときにそれが差別表現や行為と知らなかったのなら、まず表明すべきは「そうだったのか、ごめんなさい。私は差別を許さずそういった行動に反対していますので今後差別的な言動をしないよう改めます」の意思でいい。逆にそれ以外に何があるんだ。
ハズビンホテルのアラスターが好きな理由に彼がHell's Greatest Dadで「Sadly, there are times a birth parent is a dud They say the family you choose is better」(実親がクソな場合は自分で選んだ家族といればいい)と歌っていたからというのがある。明らかに"Chosen Family”を意識しているから。
なお当然ですが私はトランス差別に反対しています。(ハリポタだったりハズビンだったり、作者がトランス差別者またはそういう疑惑の拭えない人だと作品に触れるたびにこうやっていちいち言わなきゃならないの嫌だね)
これまで参加してきたデモとか署名とか全部、誰かが始めてくれたものに賛同して乗っかる形でやってきたから、第一声を上げることがこんなに怖いなんて知らなかった。周囲を巻き込めないのは私の影響力のなさが理由なのかとか、そもそも間違ったことを言ってしまっているのかとか、ずっと考えてた。
バイはバイが描かれる物語に常に飢えていますからね
政治的発言をしたり何か社会活動をしてる人は堂々としてるように見えるのかもしれないけどいつも不安や心配だらけだよ。ファクトと判断したものが実は違っているかもとか、気付かないところで差別発言をしてしまうかもとか、そもそもこの運動に意味はあるのだろうかとか悶々としながらそれでもやってる。私はこんにちみたいな局面で黙っていたり何もしなかったりする人にはなりたくない、それは私の掲げる善ではないと思うから言ったりやったりしてるだけで、自分の無力感とか失敗への恐怖に屈してしまう可能性といつも闘ってる。自分ひとりの「こうでありたい」を裏切ることはしたくないよ。
ソウルのプライドパレードの背後でアイドゥルのQueencardが流れてる。そうだよね彼女らはフェミニストであるだけでなく女と女のラブソングを書き歌い女と女の親密な映像を撮るグループ
悲しみとか怒りとか絶望とかなしに冷静に考えたいのだけど、「それ差別用語なので使うのやめてください」というメッセージに何の反応もないというのはどういう、一体どういったことなんだろう。差別は人を殺すのですよ
女が髪を切ったり剃ったりするシーンが特にピックアップされず、意味も持たされない時代がとっとと来るといいです #フュリオサとXGを見て思うこと
いろいろ見ていたら英語話者の方が私の過去作について書いているページがあって、作品だけじゃなくて作者紹介的なところにフェミニストでバイだってこととかアミでホビペンなこととかも書いてあってなんか嬉しくなっちゃった
(これが10月から始まったものではないという事実を前提にして)私は10月からずっと、コーヒーが美味いとか作家になりたいとかホソクさんがかっこいいとか思いながら日常を続けている自分とネットを介してパレスチナの人々の惨すぎるご遺体の山を見ている自分とで引き裂かれそうなまま生きてる。自分が狂っていると思う。この同じ星でろくに食べられず夢も見られず赤ん坊の頭が吹き飛ばされる日常がずっと続いているのに、私はここ日本できっと明日も安全に仕事に行ってただ家に帰ってくる。ばかみたいだと思う。こんな私が狂っていないなら一体なにが確かなのか教えてほしい。
今、この悪政大暴走状態の日本社会を変えようと動いている政治家に敬意を表し、リアルタイムで行われている虐殺を止めようと自分の影響力を利用している著名人を尊敬します。そして行動している民と連携して、私は私であるためにやれることをやり続ける。
最近エッセイを読んでいると自分自身の雑音が大きすぎて内容に集中できないことがよくある
がんばりたいー いっぱい書いていっぱい失敗する
毎日キレてる
医療の場で「貧血気味だから出産のとき大変なことになる可能性がある」とかズカズカ言ってくる医師、なに?出産なんかしねえわこんな国で
産む予定は全くありませんと答えても将来はわからないでしょとか産む気になるかもとかなんとかグダグダグダグダ
うるせえな私の体のことは私が決めんだよ
Jアミの中で #HYBEDivestFromZionism の声がどんどん広まっていくのを見て、「フェミニズムが後退することはない」の言葉を思い出す。人権や差別の問題は知ったが最後、世界の見方が変わってしまうから知らなかった頃には戻れない。だから前進するのみ。今が過渡期だと信じて進もうとするのをやめない
どんなに主張内容の違う相手でも、自分の主体性を守るために闘っている人を嘲笑するのは違うでしょう。まずは敬意を持つのが人間ではないか。
親から殴られたこともないキレイなおうち出身の奴がDVについて知ったような口叩くなよ。せめて実態を知る姿勢を見せるなり、専門家にヒアリングしたり現場に行ったりして現実を知る努力をするなりしたらどうだ。
何かを書き終えるたびに思うけど今回も言う
傑作を書いてしまった…最高の物語だ…