【ひとこと日記】
仲の良い同僚にピアス穴を増やした報告をしたら「じゃあ今度は一緒に軟骨に開けましょう。絶対に一緒ですよ、抜け駆けはだめですからね」と高校生のような提案をされて、ときめくなどした。
親知らずを抜いていただいたのだが、歯の生え際が副鼻腔に繋がっていたらしく、抜いたばかりのいま口の中と副鼻腔が開通していて、歯科医に「今日明日は鼻血が出まーす」と言われた。すげえ。医者にとっては鼻血は出まーすという感じのテンションのものなんだな。知識があるって強いな。
なぜなのか最近、大学生の頃に知り合った友人からよく連絡がくる。そういう節目の時期なのか、ちょうどみんな何かが変化するタイミングなのか、「あのときはごめんね」とか「あの頃から本当はこう思ってた」という内容のメッセージをもらうことが近頃多い。
それに感化されて私も「あの頃は実はああだったよ、ありがとう」「あの時はごめんね」というメッセージをしたりして、不思議な波紋が広がっていて、ポジティブな波紋なので良い。思い返すことは少なくてもいい出会いがいっぱいあった。
大学生の頃の私は、リュークのような背骨をしてキャンパスを歩き、人を呪うような目をして講堂の隅の席でひっそりしていたと思うが、それでも誰かが私を覚えていて気にかけていてくれたなら、よかった。家庭内暴力と孤独から逃げるためだけに通っていた大学。あの頃の命が報われたみたいだ。
イソップのハンドソープ、通販で買うとまだ開けていない状態の箱からもいい匂いがする。
文京区の森鴎外記念館で、「読み継がれる鴎外展」がやっていたので行ってきた。きっかけは敬愛の平野啓一郎さんだったが、様々な作家と鴎外とのエピソードに触れられてよかった。
行きは雨が降っていたので降り立たみ傘が邪魔だった。坂が暑くてきつかった。入場後すぐに尿意を催してしまいお手洗いに向かって、何事もなかったかのような顔でまた戻ったが、行き来を見られた角に立つスタッフにはトイレに行ったことがバレバレだっただろう。
鴎外といろいろな文豪達の文通の形跡を展覧してるゾーンがあったのだが、普通に集中して順番に読んでいたら突然「萩原朔太郎」の文字があって、何の気なしに他メンバーの動画を見てたら急に推しが映り込んできたときのオタクのような息の吸い込み方をしてしまった。ちなみに朔太郎記念館のある前橋文学館は六回くらい行っている。
痛みに対する耐性が強いのか、ただ単に睡眠欲がとんでもないのか、レーザー脱毛中も普通に寝てしまう。注射は「能動的に体に異物を突き刺すってキモいな」という感情しかないし、脛に痣ができても綺麗に消えるかどうかが一番気になるし、親知らずを抜いたときも痛みが逆におもしろかった(?)。
しかし、個人的に絶対に経験したくない痛みがある。子を産む痛みだ。私はあれに耐えられる自信がこれっぽっちもない。そもそも経験したくない。そしてなぜかずっと、それはもう幼い頃からずっと、死ぬ瞬間に痛いのは嫌だなと思っている。どうしてだろう。映画で見る銃殺シーン、撲殺シーン、あれを絶対に経験したくない。
この世の中で、痛みは恐怖になりがちだろう。いくら耐性があるかもしれなくても怖いものは怖い。子を産む痛みも死ぬ瞬間の痛みも、生命の循環の重みがともなう。
なにもかもうまくいかない夜に自分を慰めるような、気が緩んでいるときに自分を戒めるような、おまじないのような存在の映画って多くの人にあると思う。
先日、ヘロヘロに疲れて仕事から帰宅したあと、一人で温かいノンカフェインコーヒーを飲みながら『アバウト・タイム』を見たら、日頃の喧騒の中で忘れていた心構えを思い出して心がリフレッシュされた。毎日を今日が最後の日だと思って生きることは難しい。私達は当たり前に、明日は明日の風が吹くと安心して、明日の自分に期待して用事を残して、ぬくぬくと布団にくるまっている。
ビル・ナイ(父親役)が亡くなる前、タイムトラベルができる親子が一緒に幼い頃に戻って海岸を駆けるシーン、いつ何度見ても泣いてしまう。私には両親とあのように遊んだ記憶がほぼほぼないが、どうしても泣いてしまう。友達のように卓球ができる親を、子を、亡くす覚悟はいかほどの悲しさだろう。私にはきっと生涯経験できない。
エンターテイメントが現実社会や現実に生きる人々に与える影響は計り知れない。フィクションとリアルの「線引き」についての議論はよく見るが、フィクションはリアルの一部であって、作品で描写される思想や表現は現実社会にある価値観を反映しているものなのだから、私達はそこから目をそらしてはいけないのだ。作品で描かれている思想や表現が、もし現実での差別意識やヘイトや暴力を助長するものならば、それはなくさなくてはいけない。
だって散々フィクションに、エンターテインメントに助けられて生きてきたじゃあないか。大切なのは創作物と現実の線引きではなく、現実でどのように創作物と向き合うか、だ。
ポケットモンスターソードアンドシールドからポケモンにハマった身である。言いたい。ニンフィアというポケモンのことだが、かわいい。とにかくかわいい。あれは疲労や孤独と日々戦う人間の癒やしの形である。あれがいればスパに通わなくていいし、猫の動画を見なくていいし、夜中にハーゲンダッツを爆食いしなくていい。
動いているところを眺めているのが一番いい。ソードアンドシールドをプレイしたことのあるポケモンマスターの皆さんならわかると思うが、あのソフトにはテント的な物を地面に張ってカレーを食べるシステムがある。手持ちの六匹までのポケモンを広場に放して、好きなように動かしておくことができる。ポケモンマスターとしては玩具などを使って一緒に遊んだり会話をしたりすることもできるが、正直言って、ニンフィアはただ見ているだけが最もいい。ただ見ていると、たまにあちらから近寄ってきて話しかけてきてくれることがある。ニンフィアは微笑んでくれる。きゅう、という苦しくなるほど愛らしい鳴き声で首を傾げて、どうしたの? 寒いの? とでも言ってくれるかのような様子である。それで話に応じてみれば、ポケモンマスターの私と一緒にいるのが楽しくてたまらないみたいな顔で飛び跳ねたり、きゅっきゅと言ってリボンを振ったりする。ちなみに技を繰り出すときもかわいい。しかも強い。フェアリータイプはニンフィアがいれば全て事足りる。
そもそもニンフィアは、進化前のイーブイの状態で懐き度を上げないと進化してくれない。つまり、ニンフィアとして出現した瞬間から私に懐いているのだ。ポケモンマスターは鼻の下が伸びる。即100レベルにする。絶対に手持ちの一番上にいるし、名前を「ニンフィア♡」に変えている。
指先が潔癖である。
指でなにかを触ったあとに何もしないでいられることが少ない。仕事先で共用している電話は使う前に拭かないと気が済まないし、自分の鼻を触ったあともハンカチなどで拭かないと気が済まない。ぎとぎとした液体に触れてしまった暁には、絶対にすぐにハンドソープで手を洗う。臭いがつくものだったら最悪だ。ガソリンスタンドで触った給油のノズルがぬるついていたときなんか、もう気持ち悪すぎて、お手洗いに駆け込んであのガソリンの臭いが絶対に残らないように手を洗っただけでは飽き足らず、新型コロナウイルス対策で出入り口に置いてあった消毒液をプッシュしまくった。
しかし愉快なのは、自分はどうやら「きれいに拭く」「手を洗う」ことさえできれば、それ以前に何を触っても全て帳消しになると感じているようだ、ということだ。夫がやりたがらない排水溝の掃除も、終わったあとにすぐ手を洗える環境があれば、平気で触って清掃できる。虫は苦手だが捕ったあとに手さえ洗えれば、まあむんずと掴んで外へ逃がすことができる。
なぜこんなに「きれいに拭く」「手を洗う」ことに全幅の信頼を置いているのかはわからない。これって本当に指先が潔癖なのか?
ウォン・ジェフン『世の中に悪い人はいない』を読んでいて、思い出したことがあった。この本では基本的に、平和的で仲の良い家庭というものが否定されないが、そこで、「〇〇のおばちゃん」という親戚がいたのを思い出した(〇〇には、私が幼少期を過ごした田舎町の名称が入る)。
彼女が私とどういった血筋で繋がった親戚だったか忘れてしまったが、多分、義理の父の父親の姉とかだったが、とにかく彼女は、閉鎖的で「田舎者」ばかりの義父の近親の中で唯一、都会的な雰囲気があった。会うときはいつも丁寧に化粧をしていて、白い肌に映える真っ赤な口紅を塗っていた。親戚の集まりの酒の席などにはいつもあまり長居しなかった。女性達と一緒に台所に立っていた記憶は全くないし、なんとなく、下世話な話で盛り上がっている親戚達の隅の方で居心地悪そうに眉を歪めて笑っていた。なぜか私のことを可愛がってくれて、気にかけてくれたり勉強の様子を聞いたりお金をくれたりした。義父の親戚はあまり教養的ではなかったから、彼女の存在は異質に見えた。
彼女はなぜ私を可愛がってくれていたのだろう。彼女も、私の目には、あの場が窮屈そうに見えた。私はあのおばちゃんに対して、勝手に親近感と仲間意識を持っていた。おばちゃんは元気だろうか。実家と絶縁したから当然全く会っていないけれど。もっと彼女の人生を聞けばよかった。
二十代後半。もうじき三十だ。今になって「自分は一体どんな人間なのだろうか?」と悩むのである。私のこの特性は個性なのか? それとも何かの症状なのか? 名前があるのではないか? と、助けを求めるように前例を探すのである。他にはない個性を欲しがっているくせに。
私はリアルで使っているインスタグラムでもよく、社会問題に触れたり寄付や署名を拡散したりとにかく国に怒ったりする。先日、すごく愛のある気持ちのこもった「声を上げるのは特別なことじゃないって気付かせてくれてありがとう」という長いコメントがきた。気持ちを受け取ってくれた人がいた嬉しさで胸がいっぱいだった。それに彼女は、私が学生時代に憧れてた子でもあるから、泥沼みたいな大学時代を思い出しては救われた気持ちになった。
毒親の影響で精神が参っていた大学時代、あの頃のリアルの私は地獄みたいな顔をしていただろうなと思う(ネットではちょうど創作漫画を描いていて「充実」していた)。やっと大学に行くと彼女はいつも友達に囲まれていて、聡明で、大きめのホクロが確か目の近くにあった、愛らしい子だった。食が困難な人々にお弁当を作って配るボランティアをするサークルに入っていた。朗らかで活発だけどふと気付くと一人で勉強してたりもして、私が地獄のようなオーラで歩いていようと他の友達にするのと同じように挨拶してくれて、憧れていた。九州のほうの方言がたまに出るのもかわいかった。よく海外旅行に行ってたけど元気かな。本当に本当にうれしい。このことは宝物にしよう。
昔から変わってるとたまに言われてきたし、きっとそうなんだろうなという自覚もあるが、私はとにかく「他人と同じ」という状況が好きではないので、そういう自分のことは好きである。それでも「他人と違っていていい」「他人にどう思われても構わない」域に達するまではかなり時間がかかった。しかもまだ自分の中で戦っている。日々。この域に達したはずなのに、まだ他人の心中が気になったり他人からの評価に依存したりする。毎日毎日はやくもっと楽になりたい、完全に「私は私」が確立すればもっと楽になれるのに、と考えては戦って、考えては眠って。
しばらく前、推しが素敵な家族写真を部屋に飾っている様子をインスタグラムに上げていた。それを見て、私はカルチャーショックでしばらくぼーっとした。
私などこの間、元両親がテレビに出ていたらしい映像をたまたま見てしまった中で、家族紹介的なシーンの子どもの欄に弟達がいて私だけがいなかったことがかなり心に痛くて呻いていたのに、ああ、すごいな。推し本人も推しのお姉様も立派に働いている社会人で、ご両親もきっと充実した自分たち自身の日々を送られている素敵な大人なのに、家族のためだけにわざわざプロに集合写真を撮ってもらってそれを飾っているなんて、私からしたらそんな家族いるの? という感じだが、いるのだな。
元家族のことをたまに考えると、寂しいとか、嫌だとか、悔しいとか、不甲斐ないとか、そういった一言ではとても言い表わせない複雑な感情になる。私は彼らを確かに愛してもいたし、心から憎んでもいた。今も私の血肉である彼らのことを単純な気持ちで思い出せる日が来るとは思わない。
私にはわからない「普通の」家族愛を、少しでも多くの子どもが理解できて信じられてあたたかく思えているといい。ここ最近特に強く毎晩思っていることを、今日も思って寝る。どうかどうか明日には世界が平和になっていますように。
Rex Orange Countyの「AMAZING」は今聞くと心に染みるみずみずしい曲で、「変わる必要なんてないよ、君はそのままで素晴らしいんだから」「そのままここに毎日いてよ。何も気にしないよ」と、夏の鮮やかな緑色の声で歌われるとじーんとして安心するし、仕事や私生活がどんなに慌ただしくても落ち着ける。際立った個性と生産性を求められる駆け足のこの時代、自分を癒やすことがどんなに大切かしょっちゅう思い知るけど、その中で「これだ」という居場所を見つけられると突然世界が輝いて見えたりする。音楽は素晴らしい居場所である。
メーガン・ジー・スタリオンをリスペクトして毎日「Lookin' in the mirror like, "Damn, I don't brag enough"(鏡の前に立ってこう言う。"え、謙遜しすぎたっぽい")」の心です。
真面目で仕事熱心で自己管理の鬼な推しが、グラミー賞授賞式やラスベガスでのライブ前に新型コロナウイルスに感染してしまって、彼の心中を推し量ってしまいかなり心がやられていたけど、後回しにしていたRed Velvetのカムバをチェックしたら感激して静かに涙を流してしまった。冒頭五秒でバッハが流れ、シェイクスピアのオフィーリア、モネ、フラゴナール、ミレーと畳み掛けて、終わってみたら全体がヒエロニムスボス「快楽の園」だった。オマージュに出会う瞬間の感激ほどアートを愛していてよかったと思う時間はない。
アーティストの方々は本当に素晴らしい。たった数分でこんなに衝撃的な感動と救いを与えてくれるなんて。ありがとう。
一日ヒールを履いて疲れた自分の脚を揉んでいる時間だけが持つ愛おしさがある。
私は個人的にヒールが好きだが、ヒールを履くことは性別や場面で強制されるべきではない。ちなみにだが、ヒールは痛い。もう一度言おうか。ヒールは痛い。
真剣に悩んだり嫌だなと思ったりしていることを冗談にされるのは悲しい。ジョークに昇華することでポジティブに捉えようとしたのかもしれないけど、笑えるあなたがいる一方で、そのことについて心から傷付いたり心を怒りで燃やしたりしている人がいるかもしれないという想像力をどうか持ってくれたら。
差別や格差に付随する呼称や言葉遣いが議題に上がっているとき、問題視すべきなのはその一単語のみではなく、構造や構図も踏まえて考えねばならないということを忘れてはいけない。その単語がある背景、そう呼ばれる意味、そう総称することで起こりうる弊害。言葉には歴史がある。ソシュールを読み返す。
ランチから職場へ戻ったら、上司(雪のような肌につやつやの黒ショートがとても美しい女性で影で「白雪姫」と呼ばれているが、仕事がとても出来ることで有名であり、性格はかなりサバサバしている本当に素敵な方)が、『はじめてのアフリカ』というガイドブックを眉間にシワを寄せて熟読していた。キュンとした。アフリカのどこかに行くのか? と一瞬思って聞こうとしたが、あまりにも一生懸命読んでいたので遠慮しておいた。
正直ドクターストレンジの終わり方、全然覚えてないんだけど、なんとなく「俺達の戦いはこれからだ!」みたいな終わり方だった気がする。
仲の良い同僚と一緒にパーソナルカラー診断へ行った。これまで29年間ずっと自分はイエベ秋だと思って生きてきたのだが、きちんと診断していただいたらブルベ冬だった。しかしセカンドカラーはイエベ秋らしいので、セーフだ(?)。
ついでに(?)MBTIもやり直してみたら、INFJからINTJに変わっていた。詳細を読んでみたらあまりにも自分だった。他人の目を介さないと「正しい」自分を理解できないなんて、人間は珍妙だ。
子どもを産んだ既婚者の友達に、なぜ子どもを産む決意をしたのか? と聞くと、大体みんな「なぜと聞かれるとわからない」「深く考えずに産んだ」といった答えをするので、結婚はしているが子どもを産みたいと思わない私にとっては何も参考にならないし、毒親育ちにはきつい現実を突きつけられるだけだ。私は理由がないと人の命を産もうなんて思えない。絶対に。ひとりの人生を預かるということ、親の一言で子は思考や価値観が変わり時にはトラウマにさえなってしまうこと、親は子に無限に愛を与えることもできるが無限の絶望を与えることもできるということ。考え始めると私には重すぎる。
ネットフリックスでのドラマ『ハートストッパー』見終わった。すごくよかった。イギリスのティーンの青春ドラマで、クィアの人達の恋愛模様もポジティブに描かれていて、登場人物も多様でアジア系やトランスの親友がいたり、映像での肌の加工もほぼなく素晴らしかったのだが、マジョリティのホモソノリや偏見のせいでヘテロのようにはいかないLGBTQの苦悩も描かれていて(そしてその暴力性や差別行為がきちんと否定されていて)、丁寧に撮られていた。安心して、心からチャーリーとニックを応援できた。
家族や教師など周りの大人の態度も良かった。シーズン1までの今のところ過干渉な親やきょうだいもいないし(ニックはもしかして母子家庭かな?)、先生も生徒のセクシュアリティがなんだろうと良い意味で大して気にしていなくて、大人が寛容だった。だからこそ同級生達からの攻撃が痛いのだけど。
これまでは女性が好きだったがチャーリーに恋したことで自分はバイセクシュアルなのか? と悩むニック、部屋で一人でゲイについて検索して静かに泣くシーンは胸が痛かった。しかしチャーリーに「混乱している」と正直に言えたのはとても素直で誠実だった。信じて待ったチャーリーもまっすぐで、もう、なんだ。素晴らしいじゃないか。そりゃあ流行る。
クィア作品は、離別や苦悩をただただ強いられて大衆にマイノリティへの同情を誘うみたいな描かれ方するものばかりだったが、こういったポジティブで実直な作品があれば、そしてこれをちょうど彼らと同年代の頃に見る子ども達が増えれば、きっと彼らのためになる。
気付くと『ヤングロイヤルズ』を見ている。『ハートストッパー』を見たほうが後味が良いことはわかっているのに、どうしても『ヤングロイヤルズ』を見てしまう。『ヤングロイヤルズ』を見ると落ち着く。適切な量を摂取するようにしないといけない。
『ヤングロイヤルズ』、オープンリーゲイであるシーモンが同性愛者であることを理由にいじめられていたり偏見持たれていたりする描写がないし、ヴィルとの動画が流出してしまったあともヴィルに対する周囲の態度が全く変わらず「動画が流出したこと」が論点になっていて、ああすごい、これが同性婚が可能になって久しい社会なんだ、そんな社会を生きる少年青年たちなんだ、と思って感激してしまった。ヴィルは王族ゆえに子孫を残さないといけない(……)から妊娠が可能な人と結婚することが求められているのだろうけど、「異性愛者でない」ことはもはや問題になっていない。なんて世界だ。
このドラマは音楽が最高だし、カメラワークも色合いも表情の切り抜き方も計算し尽くされていそうな映像がたまらないし、毎回タイトルの出し方も絶妙で唸ってしまう。シーズン1、最初と最後のヴィルのカメラ目線は、くるとわかっていても毎度絶対にドキッというかギクッとする。
あれだけ適切な量をと自分に忠告したのに、また『ヤングロイヤルズ』を見ている。
突然やりたくなってレゴで遊んだ日、いつも日中は水かコーヒーしか飲まないのに気付いたらグレープ味の炭酸ジュースを買っていた日、レイトショーで映画を見たあとに「あー早く帰ろー」と呟きながらスタバに寄ってチーズケーキを食べた日、友人と油淋鶏を食べたあとに無言でスマホをいじっていた日。全部唐突で無意味で辻褄が合っていないけれど、その瞬間の私には必要な時間だった。救済だった。そんな選択をできた自分は良いと思うし、空になった油淋鶏のお皿を挟んで「え、うちら何分黙ってた?」って笑った夜は、表情筋が痛むくらい楽しかった。
このあいだ、ZOCの「family name」を聞き返す機会があったのだが、あの曲を初めて聞いたときの「これは私だ」という激震とあの曲を聞いているときの胸をつかまれるようなどうしようもない息苦しさは、きっと生涯忘れないのだろう。暴力の影と一緒に。「その名前は二度ともう聞かずに生きていきたい」は、本当にかゆいところに手が届いた歌詞だ。私は実家と絶縁したことを全く後悔していない。家族と他人になりたかったんだ。名前を捨てたかったんだ。
『トランスジェンダーとハリウッド』、ラストに「(メディアやスクリーンでの)表現自体が目標なわけではない、それは目標達成のための手段に過ぎない。大きな社会革命が起きてこそトランスジェンダーの生活状況は変わる。視聴者が立ち上がり、トランスを苦しめる・トランスを差別し非人間的に扱う政策と闘ってくれるといい」と結んでいて、背筋が伸びる気持ちがした。自分はシスジェンダーだから、この社会で優遇されている立場にあることを自覚して、大きな声でトランス差別にNOを突きつけていきたい。
幼い頃見るスクリーンや画面の中に自分の姿を見つけられるかどうかは、アイデンティティのためにも重要だ。だからポジティブなクィアロマンスが近年増えてきているのはとても良い傾向だし、トランスジェンダーもそうであってほしい。まさに「いい世界を見ないといい世界に存在できない」。
思えば私もそうだった。小説や映画の中にあふれる、母親と友達のように仲の良い娘や父親から優しくハグされる娘を見て、彼女達に遭遇するたびに「なんで私の家族はこうではないのか」と胸を痛めていた。だから機能不全家庭で育った子どものキャラクターには愛着があった。どうやら自分の家庭はおかしいらしいぞと自覚したあと、家庭内暴力被害者や毒親サバイバーが出てくるフィクションに浸っていると生きている心地がした。彼らが生きていると私も生きている心地がした。あれは私だったし、できるなら私も誰かの「あれは私だ」になりたいんだ。
『大邱の夜、ソウルの夜』を読んで、親戚が集まったとき女性は台所で働き詰めなのに男性は注文ばかりして何もしないという「田舎あるある」の図が心に痛かった。あれを、私は日本の田舎で経験して育った子どもだったが、義父や弟はおいしく物を食べているのに私だけ母と料理させられた夏や三が日を思い出した。座り込んで動かない男性たちにせっせと食事を提供して、お酒を汲んだり何がほしいか聞いたり奔走する母や祖母、なぜか悪いことをしているみたいにこそこそ台所で残り物を食べていたのも、妙な光景だった。私はそれにずっと納得がいかず、反発したりサボったりしていたおかげで殴られたりしたわけだが。
幼い頃、義父に「なぜ私にだけ食事の用意を手伝わせるのか」「弟はテレビ見てるのに」と何度も言ったことがあったが、答えはいつも「いつかお前が結婚したときに家事が何もできないと恥ずかしいから」だった。結婚する前提なのが気持ち悪いし、何の疑問も持たずに女性だけに家事やらせるのもクソだし、私の義父の場合、さらにありえなかったのがこういった場面ではこう答えるくせに時が違えばすぐ「お前は綺麗じゃない、結婚できるのか?」などと言ってきたところがもっとクソだ。根まで家父長制の人間だったけれど、ひどいルッキズムをこじらせていた。痩せれば「これ以上痩せるな」と言い、太れば「ブタ」と言っていた。娘の体は父のものではないということがわかっていない愚かな義父。
ランチの帰り、道で憲法9条や改憲についてプラカードで意見を集めている人達を見かけたので、改憲反対の場所にシールを貼って署名していたら、道行く人に「憲法改正どう思いますか?」と声をかけていたその方々に「どうでもいいでーす」とニコニコ答えていた大人がいた。げんなりした。この国で課長とかそういう役職に就いていそうな年齢の男性だった。
仮にあの人が本気で「どうでもいい」と思っていたとしても、子どもも歩いている通りでニコニコしながらそれを声高に言える態度が全く尊敬できず失望したし、「どうでもいい」とデカ声で言えるその無神経さは自分がたまたま恵まれた立場にいることを自覚していない表れでもあるし、冷笑ムーブだし、もう、とにかくクソだ。
よく美容の話をする女性の先輩が、生理がとにかく重くてPMSもきつくて悩んでいると言っていたので、低用量ピルをおすすめした。私はピルと月経カップで生理を体感ほぼないものにできたので、私のように体に合っている人にはとてもオススメである。
もともと私も生理が重くて、高校の頃などは吐いてしまったりするくらいだったのだが、婦人科へ行って診てもらい、ピルを飲み始めたら、腹痛すらほとんどなくなり肌荒れもしなくなり、PMSもまあ何もないし、生理自体も三日で終わり、今のところいいことしかないです。今のところって、もう三、四年飲んでいるが。
そもそもは妊娠するリクスを減らしたくてピルという方法を調べ出したのだが、今となってはそれに加えて生理が楽すぎる利点がとても大きくて、さらに月経カップを使えば、ナプキンを消費しないで済むし蒸れないし、漏れを気にせず運動できる・寝られる・お風呂入れるで、こっちもおすすめである。あとはデリケートゾーン用のソープをめんどくさがらず使い、私はVIO脱毛もしてるので、それで下半身の悩みはかなり減った。
お金がかかりすぎるのは改善の余地がある。行政へ。
このあいだ母校で講義をする機会があったのだけど、タブレットひとつ持ってやって来る学生もいたし、授業中のメモもペンタブ的なやつでしてる人もいたし、出席確認も電子だし、身軽ですごくよかった。
虐待の専門家の方から話を聞く機会があったのだが、完全に個人的な興味で面前DVについていろいろ質問してしまった。やっぱり個人的に最も関与の深かったものが面前DVだったので、ここへの関心は尽きない。自分の課題でもある。
夫と「選ぶ政党によって自分の生活が変わっていく投票シミュレーションゲームを作れば政治をもっと身近に感じる層が増えるのでは」という起点から、「こういうプログラミングをすれば組み立て可能なのでは」「資金はクラファンにして……」「専門家や議員に監修してもらって……」という話で盛り上がった。
こういったものが今すでにあるのかどうかわからないが、もし作ってキャッチーな感じで打ち出せば、少しは響く層があるだろうか?(自分でプレイしたことはないので詳しいことは知らないが、)シムピープルみたいなゲームに選挙システムを加えるだけでも効果ある? など、いろいろ考えた。月の明るい夜。
敬愛する教授が以前、『「差別的だとわかっていて批判しつつ作品を愛したり、論じたりする」のと「差別的であることに目をつぶって作品を愛する」のって全然違う』と話していた。
そして、「自分が魅力を感じるコンテンツ」と「自分が健全だと評価するコンテンツ」は必ずしも一致しない。ここへの理解不足のせいで私は長年苦しんできた(苦しんでいる)。フィクションやアートを愛する人達ならよくぶち当たるところだと思いますが、いかがでしょう。
「こういうときこの人の言葉が聞きたい」と思う瞬間にすぐ会いに行けるので、好きな本や作家さんというのは心の救いで拠り所だ。私が読書を愛する理由のひとつでもある。本は、表紙さえ開けばいつでもその世界に旅立てる。私ひとりで本と対話ができる。私の思考を、本という鏡を通して見つめ直せる。
ジェシー・アイゼンバーグ、『ソーシャル・ネットワーク』とか『グランド・イリュージョン』のような、暴走する天才や暴走するオタクみたいな役がハマる。ちなみに私はあれがすごくセクシーだと思う。
義理の両親と一緒にいるときに感じるのは、良い意味で距離があることだ。話をしていると何度も「まあそれは君達が決めればいいから」「好きにするといい」「それは言わなくていいよ」という主旨のことを言う。私の実の両親だった人達は「こうしろああしろ」「全て話せ」「さもないと…」だったから、一緒にいた時は常に緊張していたが、義理の両親はこうなので安心しきってしまって、ぼーっとしたり友達みたいに笑ったりしてしまう。関係性が健全で居心地が良いが、いかんせん毒親育ちなので、義理だろうと親という人に対して緊張しないでいることに不安になってしまう矛盾がある。私はこれでいいのか? と。
そんな寛大な両親に育てられたので夫も寛大で温厚で誠実なのだが、一方私は……という内省をよくする。私は愛する人や推しているアーティストなどに対して何もかも知りたいと思ってしまうタイプで、自覚しているので、いつもそれを制御するために理性をフル稼働させている。健全でいるための訓練だ。
私も、夫のスマホがパスワードが解かれた状態で目の前に置いてあったら、見てみたいと思う。でもそこで見ない、夫が私に見せようとしていないものは見ない、と線を引くのが、健全なコミュニケーションだと思っている。
夫は寛大すぎて、家出したての頃の私は逆に不安になってたこともある。詮索もしなければ怒らないし嫉妬もしないので、浅はかだった私はなんで? と思っていたが、結局それは「自分と他人は別の人」「依存も執着も支配も良くない」ときちんと理解できていれば、自ずとそういう態度になるものだったのだ。
ちなみに義理の両親は、私が彼らの息子と結婚云々をひと通り終えて挙式の直後にちょっと絶縁しますわって伝えても、一言も事情を聞いてきたりしなかった。今もこのことについて何も話したことがない。信じられるだろうか。夫が一言「妻の親、実はちょっと虐待的なアレだった」と言った以降、なにも触れてこないのだ。「そっか。お前との結婚は別に変わらないんでしょ?」夫「うん」という会話をして、終わり。私はこれが本当に信じられなかった。これにどれほど助けられているか。私の親なんて、夫を知った直後から「どこ大卒だ?」とか「両親は昔なにで出会ったのか?」とか根掘り葉掘り聞いてきたから。義理の両親、なんて素晴らしい距離感なのかと常々思う。
『ドント・ルック・アップ』、2022年コメディ映画部門暫定第一位。
地球が破滅するテーマはなぜか好きで色々見てきたが、本当に破壊される結末はほとんどない。しかしこれは様々な岐路で人類が判断を誤ったせいで、今ある地球上の生物や植物がほとんど絶滅する。専門家の話にまともに取り合わないメディアの姿はまさに今のこの国を見ているようで胸糞悪いし、破滅を招いた誤った判断をした人間が生き残ったのも小気味悪いが、主人公二人の姿とこの結末を通して訴えたいテーマが明確でわかりやすいし、ちょっとでも政治的な活動をしていたり政治に関心がある人間にとっては笑えないほど皮肉が効いている。
ルックアップ派とドント派が対立している中で「中立派、みんな仲良く楽しくやっていこうよ派」が現れたとき、つい額をパチーンと叩いてしまった。ここまでの痛快な再現と皮肉! いるいるだしあるあるだし風刺が巧妙だ。
オグルソープ博士が連行されながらも「We will no be quiet!」と叫ぶ姿を見て、私は絶対にあれでありたいと思った。
いつもお世話になってるネイリストさんと画家の絵をモチーフにしたデザインのネイルについて話したとき、「モネやゴッホみたいに著作権が切れていれば描けるんですよ。ダリとかはまだダメです」と聞いて、そっかそりゃあ権利関係するよなと納得した。次回はそういう柄もいいかもしれない。
藤原竜也さんが出たシェイクスピア舞台といえば、私は『アテネのタイモン』を以前に見た。叫んでいたかどうかは忘れてしまったけれど(笑)、台詞を間違えて恥ずかしそうにする藤原さんというある意味とても貴重な一瞬を見られて、よかった。その後は吉田鋼太郎さんが笑いながら上手に場面を進めていて、舌を巻いた。
『DUNE』を友人と見て、「ゼンデイヤを使ったサブリミナル効果実証の映画」「私がティモシー・シャラメだったら今すぐ風呂に入りたい」「(帝国軍隊の惑星を見て)怖すぎる。この星、文明なさそう」「結局ギアス使えるお母さんが一番強い説ある」などと雑な感想を言い合ってたの、非常におもしろかった。
ホワイトニングを始めたら、いよいよ本格的に土日が動きづらくなってしまった。毎月、ネイル、まつパ、美容室、ホワイトニングを入れて、ジムも行きたいとなると、他のことがやりにくい。涼しくなったら脱毛の続きもやるのに。続けている皆さんはどうしているのだろう。私は一日一歩も家から出ないで本を読んだり映画や講演を見たりする休日を絶対に作りたいタイプなので、いかんせん。
ミステリーやサスペンスやSFなど、ロマンス要素は別に必須ではないストーリーの本や映画やドラマで、主人公男女が問題解決とともに両思いに! みたいなものがありすぎて、もうずっとうんざりしている。女性と男性が一組揃ったからといって恋愛関係にさせなきゃいけないルールなんてないのに、あまりにも多い。
その点、ドラマ版『サンドマン』は、男女が揃っても女性が元カノと空想でいちゃつきだすし、ヘテロ男性がカフェで女性に軽口を叩いたら女性が「私ゲイなんだけど」ってクールに返すし、女性を口説いていた男性があとの話で男性とセックスしているし、おそらく性別がないと思われるエンドレスの役にノンバイナリーの役者がキャスティングされているし、なんと見やすいことか。ストーリーに集中できて快適だし、あまりにも「自然」で心地が良いし、最高である。最高である。
「エモい」「黒歴史」などの”わたし的・見かけるたびモヤモヤする言葉集”に「主語が大きい」が加わって久しい。
お酒を割るのに炭酸水をよく買っていたのだが、ペットボトルや缶のゴミを出したくないのでソーダストリームを購入してみた。簡単に浄水から炭酸水が作れるし、今のところとても良くて重宝している。おすすめしてくれたいつもお世話になっている美容師さんは、作った炭酸水は髪を洗ったり洗顔したりするのもいいよ、と言っていたけれど、まあめんどくさがりなのでそこまではやっていない。
私はまだまだ臆病で面倒臭がりで、幼い頃から抱いている作家という夢に対して何もできていないまま何年も過ごしている。誰かに胸を張って「これが夢です」「いつか叶えます」と言うこともできていない。憧れが寿命を蝕んでいくじくじくする感覚は、きっと私が無謀になれないといつまでも消えないんだろう。
これに対してさほど焦っていないというのも問題である。正直、今の仕事は嫌いではないし、私に合っているところもあるし、やはりどこか「好きなことややりたいことを仕事にする」選択に勇気が出ない。「仕事は稼ぐための手段」「きっかり帰って趣味の時間を」と思って選んだ仕事でもある。
一日一日を大切にして、貴重な時間を濃く使って、なんとかして「あーやりたいこと全部やった。いい人生だった」と思いながら死にたい。この人生の目標を達成するためには、私は本を出さないとだめだと自覚している。自覚しているくせに、お遊びの散文が楽しいし韓国語の勉強も再開しちゃうし映画も見たいし、やりたいことがたくさんある。
それなので、いつも「死ぬまでには本を出してみたいです」なんて弱めに言って逃げている。時間は作るものだと頭では理解しているが、なかなか思うようにもいかない。人生が三回くらいあったらいいのに、といつも思うが一回しかないので、しょうがなく今日も自分に奮闘しながら寝ます。
最近自分の適性について考えていて、自分はどんな人間なのか? という自問の先で、自分にはどんな環境が適しているのか? どんな環境が快適なのか? と考えると、逆説的に言えば私は改善の余地がある非効率的なシステムの中にいることが非常に大きなストレスになるようなので、そうでない所がいいようだ。
二十代も終わりに近付いて、やっと自覚する自分の姿があまりにも多い。私は自分が思っているよりずっと潔癖だし、外的刺激に弱いし、無駄や無価値が嫌いだし、結論を急ぐし、とにかく中途半端を受け付けない。多様性と共存を目指しているのに良くないと反省することもたくさんある。
私はどうやら強欲な人が好きなようだ、というのも最近の気付きである。現状に甘んじず常に変化を求めるような人が好きだ。自分で自分のために動ける人が好き。しかしこれは行き過ぎるとウィークネスフォビアや自己責任論になってしまうので、気をつけなくてはいけない。
本を読んでいて、小説の中の登場人物になんとなく釈然としないいやーな印象を抱いて忌避感を持つとき、同族嫌悪であることが多い。自分の、自分で認めたくない部分を客観視させられているような気分になって、居心地が悪い。どっか行ってしまえと思う。本は鏡だ。リフレクションのツールとしても大切にしたい。
秋の切ない肌寒さや自分自身と甘んじず向き合う孤独が大好きなので、日が落ちるとぐんと涼しくなるこの時期はたまらない気持ちになる。街の灯りがじんわり目立ってくる夕方の終わり頃に、薄手のカーディガンのだぼつく袖でホットコーヒーを持つ自分の指を見ると、この季節をまた生きていられてよかったと泣きそうになるのである。
大学の頃の友達の結婚式に参列したのだが、雑談の中で、大学時代に私が少し付き合っていた元カレと、恋人がいなかった期間に私がこっそり片思いしていた女性が、今まさに付き合っている(しかも婚約もしていた)と聞いてびっくりした。びっくりしすぎて、そこか-! という気持ちだし、そ、そうか……としか言えないし、何だろうこの気持ちは。
その元カレも片思いしていた女性も式場にいたのだが、正直、その女性のほうに再会できるのが楽しみすぎていた。実際に数年ぶりに会ったら、相変わらず優しくて知的で可愛くて最高で、ああバイだと自覚した後にまた会えて良かった、あの頃の気持ちは絶対に恋だった、と感慨深くなっていたのだ。そこにこのニュースで……。
いや、良い話なのだけど、だけど、私はこの元カレに当時とても酷い付き合い方をしてしまっていて、今までの人生でトップレベルに反省してる期間なのだ。それが、そうか、あの子と。そうか、と。本当に申し訳なかった。感情がぐるぐるしている。
人には常に誠実であらなきゃと猛反省である。
最近、時代の流れに逆らうような遊び方をしていて、なぜか急にスマッシュブラザーズを夫と一緒にやるようになった。
このあいだは夫と突然『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』を見返し始めた。何日かかけて全て見た。しばらくブームがあって、エドが真理の扉に挟まれながらアルフォンスの体を指差して「待ってろよ」的な台詞を言うシーンをしょっちゅう再現した。これが愉快である。
いくら理性的であろうとしても感情が先走ってしまうことはよくある。イランで頭部から外したスカーフを振り回して自由と権利を求める人々、ただ揶揄を楽しんでいる本邦の住民に嘲笑で詰められる沖縄のアクティビスト、終わらない戦争、ベビーカーに体当たりされる母親、国会中継の画面の中で小学生のような野次を飛ばされる議員、終わらない環境汚染に自然破壊、現政府に抗議したという理由で暴力を受けて殺された少女。私は泣かずにはいられない。この悲しみや悔しさや不甲斐なさはいつまで続くのだろう。どうして私はいつも蚊帳の外から眺めていることしかできないのだろう。すっ飛んでいってあなたを苦しめるそいつの横っ面をひっ叩いてやりたいのに、私はこうしてここで泣きながら「感情論ではなく人権を軸に考えないと」「理性を保って思考を止めないようにしないと」と自分自身を諭すことしかできない。いつもそうだ。
私はいくら泣こうと平等と平和を諦められない。私は踏みつけられているあなたの足を絶対に忘れない。私のこの涙は同情ではない。
「素敵なネックレスだね」と言われたときに、「これ実は売り上げの一部がユニセフに寄付されてシリアの子どもたちの人道支援になっているの」と咄嗟に言えるかどうかが一種の緊張である。
私は常に身につけているものを自分の信条で満たしたい。ネックレスは前述の通りだし、ピアスはリサイクル素材を使ったサステナブルな制作を重視したブランドのものを集めるのが好きだし、ブレスレットはセクシャルマイノリティ支援が目的で設立された雑貨店で購入したもので、腕時計はノルウェーやアラスカのシロクマやその環境を保護する動物福祉団体の支援になるもので、指輪は「慰安婦」問題に継続的に取り組み性暴力被害者の支援を行っている団体のものだ。スキンケアなどの日頃のケア用品は、エシカル消費を心がけている。
これが「私はこういう人でありたい」の過程で、自己紹介で自己表現でもあるが、まずこうしていないと私自身がもたないのであり、なによりこの世界の平穏を常に求めている。「あなたが持っていたあのチャリティグッズを自分も買った」とか「あなたがよく言うので自分も社会問題に向き合うようになった」などと言ってくれる人がいて心から嬉しい。一歩は小さいが一歩を踏み出さないと何も変わらないのだから。
文字を書くことが好きだ。ペンを握って先端を字の形に滑らせるあの行為が好きだ。だから、何かの受付とか役所とかに行って何らかの書類の前に座った際には私がむんずとペンを取って夫の分まで記名をするし、紙のノートに日記を書くときはワクワクしちゃうし、友達にバースデイカードを書く夜は陽気な音楽と一緒に気分に浸ってしまう。勉強の時間だってある意味ハッピーだ。
しかし最近は、それらのシーン以外で紙に活字を書く機会がほとんどない。仕事はデジタル機器の中で記録ややり取りをしているし、手紙やはがきなどもうそう書かない。思えば、ボールペンも三種類くらいしか持っていない(学生の頃はあんなに大量にストックしていたのに!)。
文字を書く行為への期待は今後、どこで発散すればよいのだろう。漢字練習でもしてみようか。
夫はなにひとつ悪くないのだが、最近、夫の歓声が心臓に悪い。私の夫はゲームが好きで、よくリビングや自分の趣味部屋でゲームをやったり実況動画を見たりしながら「わー!(感動)」とか「おー!(応援)」とか楽しそうな声を上げているのだが、私が書斎で読書や勉強をしているときにそれをされると、壁のこちら側でぎくりとしてしまう。私は壁越しに聞こえる大声や物音が非常に苦手だ。繰り返すが夫はなにひとつ悪くない。
実家で義父の暴力に怯えながら暮らしていた頃、夜、自室で学校の課題なんかをしてるときによく、下の階や隣の義父の部屋から怒鳴り声や物を壊す音が聞こえてきていた。それだけだったらまだいいのだが、当時の私は、そのときに義父と母が一緒にいたら、場合によっては母を助けるために部屋に割り入っていた。母が義父の暴力で死んだらまずいからだ。実際、母の泣き声が尋常ではない具合なのでこれはと思いドアを開けた先で、母が危険な状態だったこともある。何度か。だから私はいつも義父の出す音や母の泣き声に聞き耳を立てながらシャーペンを握っていたのだが、おそらくそのせいで、別の部屋から壁越しに聞こえてくる声や大きな音がトラウマになっている。
ゲームを楽しむ夫の歓声だけではなく、日常生活の中でこういった状況になっただけで、心臓がばくばくいい冷や汗をかくのだから、困った。
いま自分の日記をつけていて、「時期尚早」と書こうとしたら「尚」の字をど忘れしてスマホで打って調べてしまった。そこでふと思い出したことがあった。
高校生の頃、ちょうど修学旅行で沖縄へ行った時期に、そのとき仲の良かった友達となぜかヘンテコなオリジナルキャラクターをルーズリーフに書いてぎゃあぎゃあ爆笑していたことがあった。そのキャラクターに、『ちびまる子ちゃん』の花輪くんみたいな髪型をした白人の人物がいて、そういえばそいつの名前が「時期尚早」だった。ちなみにこれは「ときごなおはや」と読む。詳細は忘れたが、サッカー部の部員だった他の人物によく世話を焼くめちゃくちゃ脚が長い男性のキャラクターだったと思う。多分金髪だった。
愉快なタイミングで思い出したものだ。ときごなおはやのことを思えば、次から「時期尚早」とスラスラ書ける。
私はいわゆる「ARMY」だ。つまり韓国のボーイバンドBTSを応援しているという意味なのだが、今回、彼らの貴重なライブ映像がディズニープラスで配信されるというので登録した。登録したいと思いつつ渋っていたディズニープラス、もし登録したら絶対に見ようと思っていた作品があって、それが『私ときどきレッサーパンダ』だった。これ、フェミニズム界隈で話題になっていて信頼する方々が声を揃えて良い作品だと話すので、本当はものすごく興味があってずっと見てみたかった。結果、BTSに背中を押されて登録したのち即、見た。ライブ映像より先に見た。
信頼する方々の評価というのはやはり読む価値が非常にある。子ども向けコメディ映画を侮るなかれ。『私ときどきレッサーパンダ』、私は五回くらい見てしまった。冒頭からおや、これもしかして毒親の話かなと思った予想はあながち間違ってはいなかったが、なにより登場する女の子たちがこれまで見たどの映像作品の女の子たちよりも生き生きしていて、彼女たちの人生を感じて、彼女らが一歩あるく度ににこにこ微笑んでしまった。主たる消費者に「男性の目線」だけを想定していないような、まさに待ち望んでいた女の子の描き方だった。下品なダンスをしてみたり意味もなくカメラを回してみたり、そうそう、女の子ってそんな感じで超楽しいよねと、共感やリアリティを噛みしめ、成長する過程での親との関係性の変化の描写にも心掴まれ、映画好きとしてもフェミニストとしても絶賛したい作品だった(余談だが毒親育ちとしては胸がチクチクしたシーンも多々あった)。
おまけに4☆TOWNのファンにもなった。4☆TOWNとは、『私ときどきレッサーパンダ』の劇中に出てくるアイドルグループの名称で、主人公たち仲良し四人組を始め世界中が彼らの熱狂的ファンになっている。このメンバーにBTSのひとりをモデルにした人物がいるのだが、これまたよく似ていて本人をそのまま登場させたような雰囲気だった。加えて音楽もまた良くて、例えるならインシンクやバックストリート・ボーイズを彷彿させる数十年前の欧米ボーイバンドのようなメロディラインに、今のKポップアイドルを思わせるラップパート、動きの揃ったダンスに派手なステージ演出をミックスしたような、「いいとこ取りボーイバンド」だった。おそらく人種も様々ではないだろうか。今調べたら4☆TOWNのホームページもあったので、気になった方がいたら「4☆TOWN」で調べてみてください。映画中のライブシーンはコールしたくなるくらい気分が上がります。
ブルーノ・マーズの緊急来日公演に行ってきた。緊急という前置きのとおり、今回の来日公演は本当に突然発表されて、気付いたらチケットの抽選応募が開始されていた。仕事が忙しい時期だしどうしようかなと迷っていたら仲の良い同僚から連絡がきて、一緒に行かない? と誘ってもらえたきっかけがあり、即応募して結果を待った。なんとなくいける気がしていたら予感は当り、当選の文字。東京ドームの二階席だったので、肉眼で見るブルーノは豆粒サイズだったが、そんなことなど全く関係なしに、最高が凝縮されたあっという間の二時間だった。体感は五秒だった。「Moonshine」の冒頭が聞こえた瞬間から号泣してしまったし、歌って踊ってへとへとになって、アンコールの「Uptown Funk」の最後を歌い終えた勢いのままステージ裏へ駆け足で去って行く豆粒ブルーノを最後に見てから、隣の同僚と一緒にしばらく放心していた。「感染症拡大防止のため規制退場にご協力ください」という事務的なアナウンスがバックに流れていた。
いやはや、世界を圧巻するエンターテイナーのライブパフォーマンスを肌で感じると、そうかこんな感情になるのかと。会場から音漏れする「Billionaire」を聞きながら物販の列に並び「激ダサティーシャツ」を購入するまでは、自分が本当にブルーノの生歌を聞けるなんて全く実感がなかったのだが、いざ体験してみるとまるで最初からこうなる運命だったかのようである。歌声を聞いているだけで祝福でもされているかのような感情になることが、他にあるだろうか。一緒に踊っているだけで幼稚園からの旧友にでもなったかのような錯覚を覚えるアーティストが、他にいるだろうか。
超新星爆発みたいなライブだった。宙を突き抜ける歌と、生命力にあふれたバンド、一体的で瞬くスマホのライトが流星のようだった客席、揺れる床、らせん星雲のようなレーザーライトと、雲のように黒く上下する観客の手、手、手。全ての光景を生涯忘れないだろう。宇宙の始まりのエンターテインメントをありがとう、ブルーノ・マーズ。
私は平日にあまりSNSを見ない(ようにしている)ので、平日の昼間などに見かけて「あっ、これは読まないと」と思った記事や人に勧められた動画なんかは、フォロワーがゼロのツイッターアカウントにとりあえずツイートしておいて休日にまとめて読む、みたいなことをよくする。そうすると、見るときにリンクが切れていたりそもそもそれ自体削除されていたりするものもたまにある。
そのときの寂しさよ。見たかったという切なさ。過去の自分が見るべきだと判断したのに見られなかった、その部分の無知に関して今後なにか痛い目に遭ったりしないだろうか、という根拠のない焦燥感よ。
すぐに読めばいいもののそうしない自業自得があるから、誰のことも何のことも責められやしない。いやはや、時間は無限に欲しいものである。
快感、と表現すると少し下品にも聞こえるが、そういった含有要素も踏まえてこの言葉が最も適しているように思う。私は読書が好きだが、没入していた本にしおりを挟んで顔を上げる瞬間、そこには一種の快感があるように思える。本の中から現実に戻るための通路には、なにかそういった特別な感覚を持たせるような機能があるのだろうか。オーガズムにしては祝福が薄い。夢が終わるような敗北感がある。
自宅の趣味部屋での推しグッズ収納スペースが足りなくなってきたので、新しく棚を購入した。何かを組み立てたりする作業が苦手なので、いつもは多少高額になっても既製品を買ってしまうが、気に入った形状の物が組み立て式しかなかったため、今回はしぶしぶ自分で組み立てる種類の物を選んだ。
ドライバーでネジを差し込むタイプのものだった。最もやりたくない方法の組み立て方だった。案の定、手の平に数箇所マメができた。マメなんておそらく中学生ぶりくらいにできた(吹奏楽部で鉛ほど重い打楽器の運搬なんかをしていた時代だ)。しかも普通に痛い。
早く治る方法はないのかと思って調べてみると、二・三日おけば自然に消えるという。それを信じて数日放置してみようと思うが、マメができたら積極的に潰してみたりして冒険していた十代の頃と比べると、「潰したら肌に痕が残りそうだからやめておこう」と思うようになった三十の年は、いくらかでも落ち着いたようである。
仕事後、同僚である友人と飲みに行った。趣味も合うし政治の話でも盛り上がれる友人なので、朝から楽しみにしていたが、お互い仕事が繁忙期だったため結構くたくたの状態で居酒屋に入った。ウイスキーの種類が豊富な店だった。気張っていないインテリアで、イタリアンな料理を得意としていて、流れている音楽もチルな雰囲気で、ぼんやりあたたかい店内だった。無印良品が似合う感じの友人が勧めてくれた店だったから、そんな雰囲気も納得だったが、これがまた居心地が良くてたまらなかった。空気が宅飲みだった。普通にお酒を飲んでいたのに、仕事の疲労もあってかだんだん気分が変わり、気付いたらなぜかふたりで落花生を剥いて食べながらカモミールティーとかココアミルクとかを飲んでいた。窓の外はクリスマスのイルミネーションがチカチカしていた。政治がクソだと言いながら、上司にこんなこと言われて最高だったとか、推しのコンテンツ更新頻度が高すぎて忙しいとか、とりとめのないことをのんびり話した。次のレインボープライドは一緒に行こうと約束をした。穏やかで眩しい、良い夜だった。
最近、自宅で飲む熱燗にハマっている。一時期、日本酒のおいしさに目覚めて毎日のように日本酒を飲んでいた頃、あっという間に数キロ体重が増えてびっくりしたことがあったが(「そりゃあそうか、米飲んでるみたいなものだもんな……」)、体型がどう変わろうと自分をかわいいと思えている今の私は最強である。今夜も熱燗がおいしい。超かっこいい有田焼の徳利も買った。
私の今一番好きな作家は、話すのが非常に上手だ。しかも声も落ち着いていて、聞いていると吸い込まれるようで、リラックスするようで、ネットに上がっているシンポジウムや講演などを拝聴しながら目を閉じていると、うっかり寝そうになることもある。
このあいだその方の書いた小説が原作の映画の試写会があり、彼も原作者として登壇していたのだが、俳優らと並んでインタビューに答えていたとき、その方が話している番だけ時間の流れがゆっくりになったようにすら感じた。私自身は「言い方がきつい」「せっかちな話し方だ」などと言われるほうなので、ああいう話し方には憧れる。しかし話し方にまで憧れてしまったら、このファンはどこまで追ってくるつもりなのかと怖くなりやしないか。
高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』、押尾にすごく、二谷に少し共感していたので痛快だったが私には芦川の生き方も理解できる。ただ、いま言いたいことはそんなことではない。私は一人で食べるご飯が一番好きだ。これを読んだから堂々と言えることが心地良い(以前ツイッターで言ったときは正直少しびくびくしていた)。酒は誰かと一緒に飲むのがおいしい、一人のときは飲まないと言っていたこともあったが、今は別に飲みたければ一人でも飲む。誰かと一緒のときは酒がないとやっていられない。大勢とがやがや食べることの一体なにがそんなに嬉しいのだ。インスタグラムにご飯の写真だけを載せる人は一体なにがそんなにいいと思うのだ。職場でお菓子を他人に配りまくる人は一体なににそんなに満足しているのだ。わからない。時間をかけずに適当に食べられるものにして、一人で考え事をしながら黙って食べるものがいちばんおいしい。他人の咀嚼音は苦手だし、毒親のせいで人の食事マナーにいらついてしまうこともあるし、大体食べながら喋るという行為はどちらにも集中できない。食べるためになにかを頑張るのはかなりのストレスだ。家事のカテゴリに料理が入っているのが苦痛だ。「おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌い」だ。料理は嫌いだし(苦手ではない。嫌い、だ)、カップラーメンってすごくおいしいと思う。今でもストレスが溜まるとジャンキーなものを大量に食べることで鬱憤を晴らすことがある。今でも、と言ったのは、過去に無理なダイエットをしていたときに過食症気味になったことがあるからだ。でも人前でカップラーメンなどを食べると「体にいいものを食べなきゃ」と言われる。人前で弁当を出すと「ちゃんと作って偉いね」と言われる。食べる姿で何かを判断されるのが嫌いだ。食べ方で生き方を評価されるのが嫌いだ。同僚に、お菓子作りが趣味でご飯は毎晩のように素材! って感じの野菜となんかおしゃれなお茶を飲んでいる人がいる。彼女はこないだのクリスマスや正月に、似たタイプの友人らと集まって一緒にご飯を作って飲んで食べてほんとうに楽しかった、と言っていた。私にはこれっぽっちも共感できなかったのでよかったですねとだけ言った。これがこの人の生き方なんだろうと思うことで、共感のできなさを何か別の感情に変えることは防いだ。私だって食で人の生き方を判断していた。嫌だ。思えば、食べることに関して強烈に明るい思い出があったかというとなんとも怪しい。今ふと考え至ったのは、出張でホテルに外泊したときにコンビニでお好み焼きみたいな重いものと普段選ばないようなエナジードリンクみたいな色のお酒を買って、部屋で一人それらを食べて飲んでいた不健康で暗い孤独な食事だった。あれは最高においしいごはんだった。
私は、私生活の友人らと繋がっているインスタグラムでもストーリーの8割くらいは政治の話をしているのだけど、先日同僚に「加藤さんのストーリーは勉強になります。三日に一回はそうなんだーと思ってる」と言われて今もすごくモヤモヤしている。私が求めているのは共感ではなく拡散で、連帯で、共闘で、あなたにも一緒に声を上げてほしいと思っていて、実際に何度も「政治の話をしよう」「声を上げよう」と書いている。私をただの情報源にしないでほしいというのはおかしな思いか? どうして誰も一緒に行動してくれないんだろう。君の姿を見て声を上げることはおかしなことじゃないんだと気付いたよとメッセージをくれた旧友もいたのに、その子も結局なにもしてくれない。誰もがストーリーには飯の写真を載せ、出かけた場所や子どもの写真をフィードに並べている。国がこんな状態なのに今日もただ愉快なことだけ話している人を見ると恐怖すら覚える。あなたと声を上げたい。
外見のことをもてはやされるたびに削れるこの気持ちはなんだろう。飲み会の席でスキンケアの話をしていたとき、知らぬ間に声を録音されていた。あとで聞いて参考にするそうだ。悪用しないので一緒に写真を撮ってくださいと言われた。私は綺麗なんだそうだ。悪意のない純粋な目でそう言われて、私は硬直した。社会人二年目の後輩にそう言われるのだ。彼女は私をとても好いてくれているが、私は彼女が怖い。なぜそこまで好いてくれるのかわからないからだ。私の人柄や考え方について深く話したことなどないし、私が彼女のことをよく知らないのと同様に、彼女も私のことを何も理解していないだろう。それなのになぜ憧れですと言えるのだろう? あなたは私の外見しか知らないじゃないか。そうか、外見に憧れているのか。感情が削れていく。ざらざらに逆立っていく。私の体ははたして「私」なのか?
私は、私が鏡を見たときに気分が上がるように、人前に出たときに卑屈にならないように、自分の機嫌を取るために外見を気にしている。自分の中のこうなりたい、こうでありたいを満たすために、外見の様々なものに気を適っている。私は私の顔や体がとてもいいと思うが、それは私の中の基準で絶対的に自分に対してのみそう思っているだけで、他人と比較して相対的に自己評価しているわけではない。もうルッキズムが何たるかを知ってしまったし他人からの評価がなんの意味もないことを理解している。それなのに外部からの勝手な評価や必要ない称賛に散々さらされて、疲れている。もう放っておいてくれ。
私の外見は私の外見でしかない。外見だけで判断されて勝手に期待されたり、勝手に憧れられたりすることに疲れた。あなた、私がどんな人間か知らないでしょう。私が日々何を考えて、何にこだわりを持って、何にどうでもいいと感じているか、知りもしないでしょう。どんな過去があってどういうことを見ているか、知ろうともしないでしょう。顔しか見てないもんね!
今日、職場で少しお世話になった上司の訃報を見た。久しぶりに死の恐怖に対面したと感じた。メメントモリ。なぜ久しぶりなのだ。死はいつもこの生の隣にあるとみな知っているだろう。しかしハッとしたように驚いて「え」と声を上げてしまった。亡くした同期を思い出した。亡くした祖父を思い出した。死は怖い。次は私かもしれないし、夫かもしれない、横の先輩かもしれないし、全然知らない誰かかもしれない。まだ死にたくない。どうすれば死なずに生きていけるのだろう。特別長生きをしたいわけでもないが、まだ自分の番だとは思いたくない。メメントモリ。なぜ死から目を反らすのだ。だってそうしないと生きてはゆかれないからだ。
先日、夫と外食をしたときにいた店のウェイターが学生時代に片思いしていた女の子にとてもよく似ていた。姿を見たとたん心臓がばくばくいった。しかもたまたま彼女と出会った母校の近くのレストランだったから、彼女との様々な景色も芋づる式に思い出してしまって一人で緊張していた。夫にはバイセクシュアルだと打ち明けられていないから、言葉にもできずただ黙ってそのウェイターをこっそり目で追っていた。私、彼女のことが本当に好きだった。家に泊めてくれた夜のことをずっと覚えている。去年の暮れに共通の友人の結婚式で再開したときに照れながら見せてくれた薬指の指輪のことも、たぶんずっと心臓を掴んでくる。
この地獄の社会で生きていく力、「怒り」でできてる感じがするな。
自由になりたい。いつもそう思いながら生きている。
時計に合わせて。人の言葉に笑って。先週も着た服を着て。
なにかに全てを懸けるってこわい。なにかに全力で取り組むってこわい。失敗したらかっこわるいし、自分に失望するのが嫌だし、この挑戦がだめだったら私として失うものが多すぎる。愛とか。でも生涯をかけて向き合いたいものは絶対にこれだともうわかっていた。後悔したくない。私は私の人生を食い尽くしてから死にたい。夢を奪われて、感情を冷やされて、尊厳を削られてきた子ども時代を経て今まで、何かを目指して本気で努力したことってなかった。でももうやりたい気持ちのほうが大きく育ってしまった。決意って点じゃないのだね。じわじわと全身に染みていった夢に、ようやく本気で真っ向から向き合う決心がついた。