序  車を回してほしい。  と、依頼があったので現場へ駆けつけたが、指定された住所に待ち人の姿はなく、特に変哲のない夜道が冷たく佇んでいるだけだった。街灯から降り注ぐ白い明かりは、閑散とした夜の歩道の狭い範囲をぼんやり照らしていて、物の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。暗い宵だった。...
12月1日(日) 12:00〜17:00開催 東京ビッグサイト 西3・4ホール 文学フリマとは? / イベント詳細 ブース:か-37(カテゴリ:BL) webカタログはこちら 「気になる」ボタンの押下や宣伝拡散などよろしくお願いします!

 26歳でやっとスタートラインに立てたみたいな人生だけれど、やってみたいなあ、どうやってやるんだろうなあ、と25歳までにぼんやり思ってきたことや今後そう思うことにこのままひとつずつ挑戦していけば、それなりにいい生涯を送れるのではなかろうか。...
 突然、周囲の音のボリュームが数段階上がることがある。コンマ数秒のあ、くる、という予感をもってぐんっと音が大きくなり、例えば食器の触れ合う音とか隣の席の会話とか「コーヒーは食前食後どちらにいたしますか?」とかが、急に、私に覆いかぶさるように鳴り響く。私はそれに耐えてじっと身を固める。大きくなった音に体を慣らしてなだめてゆく。気が付くとそれが通常の音量となっていて、音が直ったのか体が慣れたのかわからないままぼうっとしている。そういった現象が稀にある。  そんな風に終わるのだろうか、この世界は? あ、くる、というコンマ数秒前の変な予感を経て、境目のないうちにじわじわと全てがはじけ飛ぶ。人間は自らの住む環境に変化を加えるほどの知恵と傲慢を手にしたが、その変わりゆく環境に適応できず滅びようとしている。小学生のときの夏休みの自由研究で地球温暖化について取り上げ、地球の死を具体に予感して恐怖したのを今でも鮮明に覚えている。一方で、今、戦争の放棄がいつになっても成し得ないのはヒトが進化しきれていないからだと思っていた――ようはここは過渡期なのだと。しかし過渡期のうちに星を破壊したんじゃあ元も子もない。  おそらく世界はこうやって、混沌のまま静かに、明日がやってくるみたいに境界なくじわじわと終幕を迎えるのだろう。苦しむだろうか。痛いだろうか。暑さか。餓えか。権力による抹殺か。どこまで正義を貫けるだろうか。どこまで誰かと一緒だろうか。終わりまでどう生きるかが尚更深くなってくる。(日記より抜粋)  国は戦争の準備を着実に進めていて、独裁国家への道をどんどん突き進んでいくし、パレスチナは解放されないし、地球の異常気象はもう目も当てられないし、バングラデシュやイギリスなどを見ていると自分の無力さに悲しくなる。そんな中、大国はオリンピックなどやっている。本当に、気を抜くと虚無に支配されそうになる日々だ。諦めるのはきっと眠るように心地いいだろう。それでもそうしたくないという意地がまだあって、だから自分の中の疲れや失望をごまかしごまかし立っている。人生に意味はないのだと確信したくて哲学を読む。読むとさらに世界がわからなくなって、日曜日の午後三時に昼寝をしてはまた実家で泣き叫ぶ母親の夢を見る。  心療内科の予約は今日もできなかったけれど本は買える。毎日毎日、時刻はともかく時間とは何なのか、なぜ人は他人の変化に寛容ではないのだろう、あなたの見ている世界と私の世界は別物であること、フレイセクシュアルのこと、諦めた目標のこと、夏のこと、……色々考えているけど、とにかく文字にして書くことにしてからわりと眠りが深いように思う。「嘘をつかない」という決まりをひとつ定めた日記を書く習慣が、このごろ毎日楽しい。  それと最近のマイブームがもう一つ、街から離れて自然の中で読書をすること。日焼け止めと虫除けは必須だけれど、良い日影に恵まれさえすれば、本と傘と飲み物だけでこんな季節でも快適に過ごせるのである。じっとしているから風があれば案外涼しい。……社会の時間の流れが私にはあまりにも早くて、常に急かされているようで嫌で、順応しようと焦っていると「相変わらず仕事が早いね」などと褒められて、全然違う! と思いながら解放されたくてもがいている。それで、息継ぎを求めて海面に顔を出す生物のように森や湖に行ってみている。  ある日は、ゆっくり自然に触れ合おうと思い散策路をしばらく歩いたりもしたが、途中にある「マムシに注意!」「ハチが飛び交っています」「たぬきの溜め糞ここ」などの看板にいちいちビビってしまい、のんびり森林の空気や葉の音を味わったりなどできなかった。勝手に「社会生活が嫌だ。自然に還りたい」などと思っていたが、そもそもヒト属の故郷は森ではないのだ、と思い出す。疲労の色が隠せない近頃の自分を少し愛おしく感じている。昔は自分が疲れているのかどうかすらわからなかった。どう生きていきたくてどう死んでいきたいのか、世界の終わりの日にどういう背格好でいたいのか、自分の話を聞いてやる。  地球温暖化のことを知って、怖くて夜眠れなくなった小学生の頃の自分を思い返す。当時それでもまだまだ遠いと思っていた世界の終わりを、今は十年後のことのように感じている。森の中心にひとり座っているときの孤独は人生だ。私のことなどそ知らぬ森。

 自分の八重歯が結構好きだったけれど、歯科矯正を続けていたらいつの間にか隣と同じ背の高さをして並ぶようになった。去年もこんな形でしたよみたいな顔をして大人しく立っている。鏡に向かっていーっとしてみるとこれはこれでかわいい。変わりゆくものが変わり終えた後、そこにできた新しい風景を見て「ここって前は何があったっけ」と思うのはいつも自分自身だ。  自分のことを考える時間が増えた。文学フリマが終わり、自分の創作物にもよく向き合うようになった。原稿を抱えているとそれの締切りを第一に据えるしかなく、それ中心の時間の使い方になるが、いざ終わってみると、残るのはむしろ達成感よりも虚無だ。それで書いたこれが一体何になったのだろう? 夢中で書いたはいいがこれが今後何になってゆくのだろう? 「やって意味があったのか」「やった時間を他のことで有効に使えたのではないか」などと考えて、自分の行動を損得で測ったり0か1かで見たりするのは私の悪い癖で、後先の利益とか換算価値とかから離れてグレーをもっと尊重していきたいけれども、そのためには思考の特訓が要るのでじんわりやっていくしかない。  やりたいからやる、という単純なことをするのがだんだん難しくなっていく。働き始めた頃、親の許可なく自分の意思で動くことができる大人はなんて自由なんだと思っていたが、その自由を制限する要因がよもや自分自身の思考だったとは思うまい。読みかけの本が散らばっている書斎のカーペットを踏む足の裏が熱い。まだ五月なのに夏のように暑い。きっと五月が偶然暑いのではなく、もうこういうものに変化したのだろう、地球は。このままどんどん暑くなり、どんどん熱くなりやがて爆発するはずだ。惑星の死は美しい。死を意識する。寿命を気にする。ただ小説がやりたいと思って小説を書いたあとに、私は死を考える。死ぬまでに私の本が書店に並ぶ日はくるのだろうか? 死までの時間は有限なのに、意味のあることをやれているだろうか?  そう思い巡らせて暗い気持ちのまま寝る夜もあるくせに、実際焦ってはいないのが自分でも愉快だと思う。覇気がない。叶わなかったらそれはそれでいいや、と思う訓練をすでにし終えている私がいる。昔から死に物狂いで努力をしたことがない。友達にも、パートナーにも、カウンセラーにも、占い師にも、MBTIにも「努力家だ」「頑張りすぎだ」と言われるけれど、私は努力をした記憶が全くない。努力の末にうまくいかなかったら、あるいは努力をしないで(当然)うまくいかなかったら、他と同じ背丈になった八重歯の尖り具合を忘れるように、自分の野心も最初からなかったみたいに振る舞える準備が整っている。もう何が欲しいのかもわからなくなった。なぜ作家になりたいのかもわからない。  人生に後悔ばかりだ。もっと世界がわからなくなりたくて本を読む。終わったらああまた無駄なことをした、無駄な時間を使ってしまった、と死を考えるとわかっているくせに、小説が書きたくなる。矯正が完了したあとの直線の歯みたいに行儀良く並ぶ書店の本、そこには並ばない私の本。自分の文章に向き合っている時間の心の静けさだけが確かだ。八重歯の形を昔の写真で確認する。普通にかわいい。
 ゆっくり生きたい。静かに生きたい。毎日おいしいものを食べて、本を読んで、淡いライトの下で自分と向き合って感情を一枚ずつ包むようなそんな日々を過ごしたい。そうするためには社会に対して怒らねばならず、絶望もセットで無気力に支配されそうになる。...

※画像はクリックで拡大できます。
 ※本編終了後、数年後の話   一  向日葵と菊...

 雪が降った。リビングのソファに横になってしばらく眺めていた。さっきまで見ていたJ・A・バヨナ監督『雪山の絆』を思い出した。寒い中避難所や避難所じゃないところにいる能登の人々を思った。瓦礫の白い粉で顔を汚すガザの人々を思った。雪が降る時間を静かだと思うのは、私達がそこに音があるはずと思い込んでいるからだ。質量が落ちてきているのに落下音がない、音があるのを基準にしているから、ないことが特に静かだと感じる。  孤独は一人では感じられない。インターネット上では誰もが繋がっているように錯覚するが自分の声が反響しているだけかもしれない。他人を見てこの人はあっち側、あの人はこっち側と分類するのをやめたい。いつ読み返しても森鴎外は良い。あと、友達がほしい。転職を考える。  日記(兼エッセイ)を書いている「しずかなインターネット」に感想レターが時折届いていてすごく嬉しいです、ありがとう。しずかなインターネットはイイネ機能も他人に見えるコメント欄もないし、記事ごとの閲覧数集計もないので過度にインプレッションを気にしなくて済むし、時間の流れがゆるやかなようで心地良い。気楽に開ける。場の提供に大感謝している。   さて、暴力的なまでもの薄情さがはびこる2024年、倫理や道徳よりも利益や地位が優先される2024年、こんな始まりにするつもりは2024年側だってなかったはずだけど、こんな世界にしてしまった責任を背負いながら明日も戦ってゆくために、今はただどうにか生きていきます。国会議員が違法行為をしても掴まらない国。震災の被災者救済もせずに原発を続けようとする国。著名人が性暴力を行なっても守られる国。地方自治体の声を無視して海を埋め立てる国。どうしてこんなことが許されるのか。こんな国に誰がした? あなたが。私が。  信じられないけど私たちって多分間違っていない。証明されるのが何十年後になるのかさっぱりわからないけど、そのときこの国ってまだあるのかわからないけど、きっとああよかったそうだよねこれこそ善だよねって、フェアネスが守られた社会でやっときっと息ができるようになる。今はただ毎日苦しくて、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、無力感に陥りそうになるけど、もう無闇にその「いつか」を願って信じて生き抜くしかないのかもしれない。  仕事先の新年会で六十近い男性上司に「その髪(ベリーショートに切った髪)、どうしたの。旦那さんと何かあったの?」と言われて意味がわからなくて返事に困った。別の五十五くらいの男性上司はずっと近くの席にいてずっとこっちの気を引くのに躍起になっていた。飲み会での疲れは大体が怒りだ。女というだけで別物扱いしてくる奴はみんな嫌い。気持ち悪い目線を上書きして忘れたくて本を読む。  祈るような日々です。どうやって心を守っていますか。
 お風呂が湧くまでの時間に洗面所にしゃがんで本を読む。二階から夫のくしゃみが聞こえてくる。目の前にあるドラム式洗濯機に、家用眼鏡をかけた私の姿が少し歪曲して写っている。...

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