序
車を回してほしい。
と、依頼があったので現場へ駆けつけたが、指定された住所に待ち人の姿はなく、特に変哲のない夜道が冷たく佇んでいるだけだった。街灯から降り注ぐ白い明かりは、閑散とした夜の歩道の狭い範囲をぼんやり照らしていて、物の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。暗い宵だった。
区の中でも高層マンションが立ち並ぶ路地を、数本裏に入った場所にある、影のような区域だった。深夜でも声の絶えない表通りとは違い、人通りも数人ぱらぱらあるだけだ。
住所は合っているか? 不安になり、ナビゲーションを確認した。マップ上に示されているピンの位置と現在地はぴったり重なっている。時間は? 数十分の遅れがある。運転席の窓を下げ、外の空気を入れる。あまり長いこと路上駐車をしていて通報などされるのも面倒だし、どうしたものかと迷っていると、不意にそれらしい人影が現れた。
点滅するハザードランプの灯りに照らされ、その姿が見えてくる。彼は、グランドホテルの裏口から出てくると、道路を左右見回してこちらの車体を見つけた。そして背後を振り向き、後から出て来たもう一人にあの車だと合図した。
今夜の客は、どうやらあの二人で間違いなさそうだ。
エンジンをかける。開けていた窓を元に戻し、外に出る。荷物はほとんどないようなので意味があるのかはわからなかったが、とにかく車の横に立った。扉を開けて待つ。二人は並んでこちらへ歩き始めた。
横を他の車が通り、ヘッドライトに当たった彼らの姿がよく見えた。後から出てきたほうと、まずは目が合った。
彼は、重厚なロングコートの裾を膝下で翻した聡明そうな男性で、図鑑のような厚さの本を小脇に抱えていた。逞しい肩でそれを持たれると、まるで鈍器だ。しかし歩く姿は上品なモデルのようで、堂々と、すらりとした背格好をしていた。ゴールドとシルバーの中間のようなプラチナブロンドの、丈夫そうな質感の髪を上げて額を見せている。虹彩の小さい鋭い瞳だ。彼は大股で歩きながら顎を引き、上目でこちらを睨むような表情をしていたが、ゆっくり隣を見ると、大きな口をにっと横に伸ばした。
彼の視線の先に歩くもう一人の男は、隣の男とは正反対の容姿をしていて、細身で、ゆるいシルエットのフーディとスウェットパンツを着たカジュアルな格好をしていた。闇夜に溶ける赤い髪を、額の中心から左右に無造作に分けている。やわい目尻で薄く微笑む、アンドロジナスで甘いマスクの持ち主ではあったが、眉は凜々しく、どこか隙のなさそうな雰囲気があった。顎を少し上げてこちらを見下ろす鼻は高い。彼は笑みを強くすると、「ハァイ。運転手?」と陽気に挨拶をしてきた。
「連絡したイサナです。イサナミツキ。こっちは親友のエイジ。……って、紹介いらないか。よろしくお願いしまあす」
と、慣れた身のこなしで車に乗り込む。
私が運転席に着くと、後部座席にゆったり座った彼らに、動物でも観察するかのように眺められた。落ち着かない。なんだかなと思いながらシートベルトを締める。
フロントミラーの角度を調整しているうちに、細身のほうの男性の携帯端末から行き先が共有された。カーナビの地図に新たなピンが立つ。発車すると、音楽を流して良いかどうか問われた。ブルートゥースを接続して、彼らはよくわからない英語の女性ラッパーの曲をかけた。
珍しいタイプの客だったので、そちらのほうが気にかかり、彼らが予定の時間に遅刻してきたことなど忘れてしまった。これは都内をそこらじゅう走っている一般的なタクシーではない。たいていの夜の客は、庁舎から帰宅する政治家か報道から逃げる著名人、または見知った富裕層の人間だったから、彼らは初めて乗せた妙な客だった。
目的地に向かう。フロントミラーからそっと窺うと、どちらも思ったより若そうだった。しかし、持っている携帯電話は最新の端末で、ピアスや指輪の宝石の輝きは本物のそれだ。着ている服はどれも、大学生がアルバイト代で買えるような価格帯のものではない。一体どんな生業の男達なのか知らないが、金にはずいぶん困っていなさそうである。
二人で十分に楽しそうな様子だった。酔っているのかもしれない。ミツキと言ったか、カジュアルなほうの男が隣に耳を寄せ、エイジと呼ばれていたコートのほうの男から何かを囁かれる。彼は体を揺らしてケラケラ笑いながら、コートの男の膝を叩いた。
会話の内容はよく聞こえない。ラップのせいだ。
そのとき、フロントミラー越しにバチッと目が合った。エイジと、だ。まだ愉快そうに爆笑しているミツキの隣で、コートの襟で口元を隠す。
どきりとして目を反らした。なにもかも見透かしているような瞳だった。わけもわからず恐怖を覚えるほど。何も悪いことをしているわけではないのに。
やがて最初の目的地に到着したとき、私は救われた気さえした。着いてみると、そこは若者が集う賑やかなクラブのようだった。ストロボライトやミラーボールの明かりが漏れ、ズンズンと地を這う低音が、厚いリズムになって聞こえてくる。
そのあとに指定された数か所の行き先も、全てクラブかパーティー会場だった。彼らはどこにも長居しなかった。すぐに車に帰ってきては、次の目的地へ行く。徐々に酔いが回ってきているようではあったので、中で飲んではいるのだろうが、踊りが目的というわけでもなさそうだった。
つくづくおかしな男達だった。最後の行き先は、最初のグランドホテルに戻っただけだった。今度は裏口でも正面でもなく、地下の駐車場で降ろすよう注文があった。支払いは、触るのも緊張するような種類のカードだった。
私は車から降り、彼らが途中の目的地で積んだ荷物を、トランクから下ろした。最初に乗せたときには持っていなかった大きな鞄だ。持ってみると想定よりずっと重く、つい、地面に落としてしまった。
重い衝撃音が響いた。薄暗い駐車場の冷たいコンクリートに当たり、バッグの中に入っていた何かが割れたガラス音がした。謝罪を口走りながら慌ててしゃがむと、レザー生地の鞄の口から、じんわりとゆっくり、液体が漏れてきているのが見えた。
ツンと鼻を突く臭い。鉄の臭いだ。赤黒く染まっていくコンクリート。
一体これはと思って固まっていると、見下ろしていた地面にふっと影が落ちた。
「あーあ」
ミツキだった。
彼は私の隣にしゃがむと、今も地面に伸び続けるねっとりとした液体を眺めた。
「もったいない……」
ゴテゴテした指輪のついた骨張った指でその液体をすくい、舐める。彼はべろりと出した舌に人差し指を押し当てたまま、くっと、私を見た。
背筋が凍った。
目が、赤い。
舌に触れている犬歯が長い。
そういえばようやくまともに近くで見た彼は、それはそれはひどく綺麗な顔面の造形をしていて、とてもこの世のものとは思えないほどだった。見つめられると冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と、目を逸らすことができなくなる。
コツ、コツ、と踵の音がして、エイジもやって来た気配がした。ミツキが目を上げ、私の背後を見上げる。
後ろでため息をつかれた。
「あなたには何もしないつもりだったのに」
振り向く前に、視界がぐらりと揺れた。
怯みそうなほど強い力で後ろから肩を掴まれ、おそらく、私は噛まれた。確かに自分の肌が切れる音を聞いた。首の裏に激痛が走り、全身がかっと熱くなる。膝が笑い出したと思ったら、次には射精感に似た性的快感がぐわりと襲ってきて、前のめりに倒れそうになった。
意識が遠のく。浮遊感。嬌声のような自分の甲高い声が、遠くに聞こえた。震える手で地面に手をつく。見下ろしたコンクリートの灰色に唾液が垂れて、ぽつぽつと濃く染まった。
唾液だけではないと気付いた頃には、もう遅かった。急激な貧血で寒気が止まらず、体中がどうしようもなく震えた。ミツキが、横から私の顔を覗き込んできて、にっこり笑う。
そうして、私は死んだ。
一 ヴァンパイア
「瑛次(えいじ)ぃ」
ノックをしながら部屋に入って来た三月(みつき)に、上の空で「んー」と返事をした。いつものように、読んでいる本からわざわざ顔は上げない。
「夕飯ができたけど……って、うわ」
三月が踏まれた蛙のような声を出した。それを聞き、瑛次がやっと手元の文字から視線を離して顔を向ける。三月は、瑛次の部屋の異変に気付いて目を剥いていた。
部屋自体は、非常に良い部屋だ。広く余裕のある空間のひとつの角にクイーンサイズのローベッドを置き、瑛次はそこに長い脚を伸ばしていた。ベッドヘッドのある壁には木目のアクセントウォールが入れてあり、その他の壁はグレーの石材で、床も同じ素材だった。所々に観葉植物やサボテンなどの小さな植物も置いてあり、天井まである背の高い本棚は全て書籍で埋まっていた。瑛次は本の虫だ。
今、台形を吊るすスタイルをした暖色の照明を薄暗く落とし、読書に合った雰囲気になっていたが、楕円型のローテーブルに乱雑に放置されたチューブから床に、ぽた、ぽた、と液体が滴り落ち続けていて、雰囲気のある部屋を台無しにしていた。水道管が破壊されたキッチンのように、その液体が線状に広がって一本の道を作っている。チューブには、油性のマーカーで「牛」と書き記されていた。液体の色は赤黒く、そこから少しきつい酸味のある香りが漂っていた。
三月は履いていたスリッパを脱ぎ、裏面が汚れていないか確認しながら言った。
「部屋で飲むなってあれほど言ったのに、またかよ」
どうやらスリッパでは踏んでいなかったようで、三月はすぐにまた履き直した。それから、着ていたカジュアルなアウターの袖で、ドアノブに触っていた手を神経質に拭いて(おそらくそこも別に汚れてはいない)、持っていた菜箸で瑛次をビッと指し、眉を吊り上げた。
「もう掃除手伝ってやらないからな」
「え、それはごめん。本当にその……力尽きそうだったんだ」
瑛次は慌てて本を閉じた。
そしてそれをベッドに放り出し、鼻息も荒く部屋を出て行った三月を追いかけた。
「わかるだろ? 今すぐ口に入れないと倒れそうなあの感じ。あれにさっき、突然なって」
「そうならないように時々ちょっとずつ飲んでおけって、いつも言ってるじゃん」
「飲んでるよ。飲んでるけど」
「まあ確かに、急に欲しくなるときはあるけどさ。でもだからって、部屋で飲むのはやめろ」
「部屋にしかストックがなかったんだ。冷蔵庫には……あー、冷蔵庫にもあったか」
「あるよ、あるある。俺がいつも予備を入れてるの知ってるだろ」
ぶつくさ言い合っているうちに、リビングに着いた。黒と白でまとまったシックな大理石のダイニングテーブルには、新鮮な緑が輝くサラダや何かの肉のステーキなど、すでに完璧な夕食がセッティングされていた。
最後の仕上げに、三月が空のワイングラスを二つ、置く。そして可愛らしい柄のエプロンを脱ぎ捨てると、冷蔵庫を開け、中から百五十ミリリットルほどの小瓶を一本取り出した。
「動物の血だけじゃ滅入っちゃうだろ。どう?」
そう言って、底を振って見せる。
瑛次は目を見開いた。
「買ったのか?」
「いつもの解剖医からもらった。いらないなら捨てるけど持っていくか? って連絡くれてさ。事故死した人を解剖したんだって」
三月は瓶を半回転させ、真っ白なラベルにボールペンで走り書きされた文字を読み上げた。
「三十五歳。女性。心臓から直接」
そこに書かれているのは、血液を採取した人間の年齢などの基本的な情報、彼らのどこから血を抜いたか、そして鮮度の参考のために記録された採血した日付や時間などのメモだった。
瑛次はそれを聞き、感嘆のため声を漏らした。
「そんな。まさか」
「ご馳走だろ?」
だから部屋で勝手に飲むなって話なんだよ、とまだ小言を言う三月を無視して、瑛次はせっせとテーブルについた。待ちきれない表情で瞳をきらきらさせて、三月がゆっくりグラスに注ぐ赤い液体を見つめる。液体は丸いガラスの中で揺れはしたが、透き通ってもいなければ発砲しているわけでもない。どろりと重そうに表面をゆらめかせ、赤黒く鈍く落ち着いた。
二人分を注ぎ終えると、両者はグラスを掲げた。
「乾杯」
カン、と、耳に心地よいガラスの音がする。二人は同時に一口目を喉に通した。
目を伏せて味を楽しんでいた瑛次が、グラスをテーブルに置きながらそうっと瞼を上げた。白目の広い三白眼が、グラスの中身を飲むまでは黒色だったはずの虹彩の部分が、今や冷たい銀色に変化していた。
「あー、やばい。やっぱり最高だな、このぞくぞくする感じ」
目をアーチ状にして笑顔をみせていた三月のほうも、目頭を軽く擦っていた手がそこを離れると、深い赤色の色彩になっていた。ぐりぐりとこめかみを揉みながら、もう一口胃に流し込む。笑うと見え隠れする犬歯は鋭く長くなり、妖しく光っている。
ちょうど瑛次の背中側の壁にかかっている額縁からは、立派な角をしたがえた鹿の頭が突き出ていた。虚ろなその目にチラチラ反射するのは、不規則にゆっくり点滅する壁沿いのダウンライトだ。ダイニングを過ぎた奥にはアイランドキッチンが鈍く輝いており、そこには、結露の浮いたアイスコーヒーカップの隣に、赤黒い液体の名残がこべりついた瓶が数個転がっていた。
悪いんだけど忘れ物を大学まで持ってきてくれないか、と連絡が入ったのは午後二時過ぎで、三月はその時ちょうど、カフェの仕事を退勤したところだった。だから断る理由もなく、困っている親友のためならやってやろうと、車を走らせていったん自宅のマンションへ帰った。
瑛次が大学までのおつかいを頼んできたのは、何だかよくわからない小難しそうな論文を紙に打ち出したものだった。彼の部屋からその束を探し出すのには苦労したが、どうやら今日これがないと評価が危ないと言うので、三月は精一杯探し回った。
見つけたときには、もう午後三時を過ぎていた。間に合うのかすら不明な状態だったが、急いで愛車を転がし、瑛次の通う大学のキャンパスまで向かった。
キャンパス構内を歩くのは落ち着かなかった。瑛次は優れた頭脳を持っているので、全国、いや全世界から優秀な人材が集結する立派な名門大学で勉学に励んでいるが、三月のほうは進学を諦めた身だったから、大学というものが実経験としてはよくわからず、同年代の人達とすれ違うと妙に緊張した。瑛次とはほとんど同い年だし、共同生活を始めてからもうずいぶん経つが、それでもとても新鮮な気持ちになった。
瑛次は、開かれたホール状の建物の出入口付近の、学生向けの掲示板が並んでいる場所に立っていた。論文を手渡しすると、額を地面に擦りつける勢いで感謝し、礼を言った。
彼はちょうど今、講義と講義の間の休憩時間に入ったところだったらしく、もう二十分後には次の授業が始まるとのことだった。それなので、次の講堂へと向かいながら、駐車場まで戻る三月を途中まで送ることになった。
休憩時間中のキャンパス構内には、当然、学生が多かった。瑛次からすれば、三月が一人紛れ込んだところで全く不審には見えなかったが、三月自身は始終そわそわしていた。
「よくこんな血だらけのところに何時間もいられるな」
三月はパーカーの袖で口元を覆い、小声で言った。
瑛次も声を潜める。
「正直、これはもう修行だと思ってる。卒業まで耐え抜くのが目標だな」
「ここじゃ誰のことも食べてないんだろ?」
「今のところは」
「すげえな。俺、もう腹鳴りそう」
「毎日通えば多少は慣れるさ。野生と理性をコントロールするいい練習だと思え」
「無理だな、俺は。お前はほんと、よくやってるよ」
「俺も結構ギリギリだよ。前にゼミで、紙で指を切った奴がいて、あのときはさすがに焦ってトイレに行くふりして逃げたけど……」
と、そのとき、
「あ! 瑛次せんぱーい!」
と背後から声がかかり、二人は同時に振り向いた。
瑛次を呼びながら外付け階段を駆け下りてきたのは、片方の肩にショルダーバッグを引っかけた学生らしい風貌の男性だった。
綺麗に締まった身軽そうな体型にオーバーサイズのニットを着て、クリアファイルと細いペンケースを腕に抱えて、こちらに向かってパタパタ小走りで近付いて来る。これまた学生らしい金髪と、人懐こそうだが怜悧な顔立ちが印象的だった。両耳には大きな十字架のピアスが揺れている。
「ちょうど良かった、探してたんです。起田教授が呼んでます」
「起田先生が? なんだろう。さっきのディスカッションで何かまずいこと言っちゃったかな」
「さあ。怒ってる感じではなかったですけど。今日はこの後ずっと研究室にいるって言ってまし……た……」
彼はもにゃもにゃと語尾をすぼませながら目線を横にずらし、瑛次の隣に立っていた三月の姿を見た。
視線が合う。
一瞬、誰だろうという表情を浮かべたものの、瑛次の同期の友人だと思ったのか、彼はすぐに口元に笑みを作って行儀良く会釈をした。三月もにっこりしてみせ、ぺこりと頭を下げた。
「あ……、えーと」
彼は俯き加減に前髪をちょいちょいと撫でつけ、にこにこしたまま瑛次と三月の間で目線を何度か往復させた。そして、二秒ほど三月の鼻先あたりを見て固まったものの、すぐに我に返った。
「じゃ、じゃあ……、僕はこれで」
そう言い、二人のほうを向いたまま数歩後退る。うん、と瑛次がなんの気なしに手を振ると、彼は最後にまた一瞬だけ三月を見たあと、くるりと踵を返して走り去って行った。
なんとなく沈黙が流れる。三月は取り繕った咳払いをして、隣に言った。
「あー、今のは?」
「陽(よう)。楠木(くすのき)陽」
瑛次は鞄の中をごそごそして、教授の研究室へ突撃する準備を整えながら、上の空で答えた。
「ひとつ下の学年で、国際政治とかやってる子だよ。ああ見えてしっかりしてるし頭も良いんだ。俺は最近のEUの話とか全然だめだから陽には頼りっぱなしで……。あれ、ディスカッションの資料どこやったかな」
「こう言っちゃなんだけど」
三月はまだ陽が駆けて行った方向を見ていた。
自分の唇に触れ、目を細める。
「すごく美味しそうだったな、さっきの子。肌柔らかそうだし、色っぽいし。飲んだことある?」
「あるわけないだろ」
「ふうん」
「三月。目、目」
「おっと」
三月はサングラスを取り出し、さっと掛けた。オレンジ色のレンズの向こう側で、鈍い赤色に変化した虹彩がぼうっと光っていた。
一日の勉学を終えた瑛次は、帰ってきて夕食の席につくなり何かの本に目を落としていたが、不意に思い出したように三月に話を振ってきた。
「さっき、陽からラインきてさ」
「陽?」
ぽん、と、昼間にキャンパスで会った陽という彼の姿が頭に浮かぶ。記憶力には自信があった。
三月は瑛次の差し出してきた携帯電話の画面を覗き込んだ。
『先輩、遅くにすみません。今日一緒にいた方って、瑛次先輩の三年生の知り合いですか? 失礼じゃなければ名前を知りたいんですが』
「この子、ゲイなの?」
と、三月。
「さあ。そういう話はしたことなかったな」
瑛次は何でもない顔で肉にナイフを通した。
「そんなに親しいわけじゃないんだ。陽とは学部が違うから、キャンパスも基本的には別で、今日の曜日のあのコマだけ科目がかぶってて」
「へえ」
「なに、気になる?」
そんなに関心ない調子で問うた瑛次に、三月は「そういうわけじゃないけど」と笑った。
「まあでも、一瞬しか会ってないけど本当に美味しそうだったな。匂いも良かったし」
三月は瑛次の手からすっと端末を奪うと、さらさらと指を動かして返事を打った。打ち終わると画面を瑛次に見せ、内容を確認してもらう。
『名前は伊佐名(いさな)三月。社会人だよ。カフェで働いてる』
送ってからしばらくすると、食事中、テーブルの上で携帯電話が通知音を鳴らした。
瑛次は画面を覗き込み、ポップアップで表示されたメッセージ内容を確認した。
『うちの学生じゃなかったんですね。先輩とは友達ですか?』
三月は肉を頬張ったまま立ち上がり、瑛次の椅子の裏に回った。さっさと文字を打ち始めた瑛次の手元を背後から覗き込み、「検閲、検閲」とにやにやする。
そして、瑛次の打った「今同じマンションに住んでいて」という旨の部分を消すように依頼した。
「一緒に住んでるなんて正直に言ったら、俺たちができてると思われるだろ」
「それは勘弁してほしい」
「だろ? だから余計なことは言わずに、ただ親友だって言って」
瑛次は、オーケー、と返事をして修正する。ついでに「気になるなら紹介しようか?」の一言も追加した。
「おー、さすが。こういうのは仲良くなってから腹に収めたほうが美味しいもんな」
三月は席に戻り、ソースで汚れた口元を舐めてにっこりした。
送信すると、瑛次は立ち上がって冷凍庫へ向かい、奥に綺麗に並べてしまってある小瓶のうちの一つを取り出し、側面に貼ってあるラベルを読み上げた。
「今夜はパアッといこう、兄弟。四二歳、男性、脇腹。これでどう?」
「いいね」
瓶をテーブルに置いて再び腰掛けた瑛次の代わりに、今度は三月がパントリーまで行ってつまみとグラスを用意した。
ちょうど座った瞬間、また通知音がした。
『迷惑でなければ、紹介してほしいです。あの方、お付き合いしてる人はいるんですか?』
二人は無言で顔を見合わせた。
これには三月も口元の綻びを隠せなかった。むしろ盛大に大笑いして、瑛次が持っていた小瓶を手から奪い、いったんしまった。そしてそれとは違う種類の瓶を選び直し、全身に拍手喝采を浴びているかのように大袈裟に両手を広げ、天を仰いだ。
「俺もまだまだ捨てたもんじゃないな? この美貌で、あの生き血を勝ち取ってしまうかもしれない」
うんうん、と頷き、小瓶にキスをする。
「三一歳、女性、二の腕。採った日がちょっと前だから鮮度は落ちてるけど、絶対美味しいに決まってる」
「あぁそれ、試験開けにでも取っておこうかと思ってたやつだけど、まあいいか」
瑛次は穏やかにため息をついた。
「まさか陽がお前にいくとは思わなかったな」
「人間らしくしていなきゃ。初デートで首に噛みついたりしないように」
演技がかった動作で背筋を伸ばす三月に、瑛次は肩を揺らして笑った。
「とはいえ……、人間はベッドでカレーライスを食べない。動物だって、交尾しながら草を食べたりしない。お前、食欲と性欲がごちゃごちゃになってるときがあるから、気をつけろよ」
「それの何がだめなんだ?」
と、三月。
「セックスしながら飲む血ほど美味いものはないだろ?」
鈍くチカッと光った三月の赤い瞳を受け、瑛次は肩を竦めた。
「だめっていうか、危険になり得るだろ? 落ち着いた状態で飲むのとは違って。うっかり殺しでもしたら、こないだの運転手のときみたいにまた叱られる」
「あー……そうだな」
「まあ、大体、俺たちには性欲なんてあってないようなものだ。それを楽しめるお前が羨ましいときがあるよ。俺は正直、そこまで興味がないし。愛する人と抱き合いたい気持ちはあるけど、……」
食器の触れ合う心地よい音が響く。
瑛次は肉片を口に入れ、飲み込んでから続けた。
「その、愛、というものもよくわからないな。人間だった頃は確かに愛した人もいたはずなのに、生き過ぎたのか、もう燃えるような愛も焦がれるような恋も、別世界の事象のように感じる」
「それはわかる」
三月は行儀悪く、テーブルに頬杖をついた。
その格好のまま乱暴に肉を咀嚼するので、顎の動きに合わせて頭が上下した。
「愛ねえ。……。正直、人間が誰かを壊さないようにしながら欲するのと、俺たちが誰かを殺さないようにしながら食うのって、全然違うことなのに結局一緒なんじゃね? って思うとき、あるよな」
三月は、ごくりと肉を飲み込んだ。
「そういえば、そろそろこっち着くんだっけ? 壱依(いちい)兄さん」
「そうだな。来月にルーマニアを発つ便を取った」
「バレないようにしなきゃ。絶対いい顔しないだろ」
「陽のこと?」
「そう」
「……うまくいくといいな?」
美術館を横に逸れた小道の、明るい石畳の歩道の脇に、洗練された雰囲気のそのカフェはあった。控えめに街路樹の立つ通りの一角、新築マンションの一階にテナントが入っていて、そこは開放感のある丁寧な造りのカフェになっていた。テラス席もいくつかあり、今、そこでは、数人の客がディナー時間前の休憩を楽しんでいる様子が見受けられた。ガラス張りの壁や大きな窓からは、中がよく見えるようになっていたが、店舗内にもコーヒーや菓子類をゆっくり味わっている人々がいた。
店内には、柔らかく流れるピアノ音楽と、コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが漂っていた。調度品はオフホワイトとモスグリーンで統一されていて、オーガニックで透き通るような印象になっていた。
ちょうど窓際の、傍に背の高い観葉植物が置いてあるテーブルには、たったさっき店に入ってきたばかりのような雰囲気の青年が浅く座っていて、メニューを選ぶのもおろそかに、店内を目で散策することに夢中になっている様子だった。
陽は、講義が終わったタイミングを見計らって、三月が働いているカフェをこっそり訪れていた。
場所は瑛次を通して教えてもらっていた。彼は、カカオトークの三月との個人トーク画面をスクリーンショットしたものを「親切にシフトまで送ってきたぞ」と、冗談めかして送ってきてくれた。確かにそこにはカフェのマップと、『ちなみに基本的には朝からランチまでのシフトだけど、金曜日と日曜日はクローズまでいるよーん』という三月からの送信内容が写っていて、ああ語尾が可愛いな、というかライン知りたいな、などと思いながら、陽はしっかり三月のシフト周期を暗記した。
ちら、と、控えめに首と目線だけを動かしてフロントのほうを窺ってみると、おそらくあれだと思われる後ろ姿が、コーヒーメーカーの前に立っていた。マグカップの中が満タンになるのを待っているようだった。
彼の他にはもう二人の店員がいて、一人は陽と同い年くらいに見える穏やかそうなロングヘアの女子大学生、もう一人は、少しだけ年下のような素朴さがあるがテキパキしている爽やかな青年だった。
どうしよう――陽は両手で静かに顔を覆った。
あの日、大学でたまたま、本当にたまたま巡り会った人にもう一度会うために、一人でそ知らぬ喫茶店にやって来てしまった。自分のことを思慮深いほうだと認識していた陽は、行動したあとにどうしようと迷う今の自分におののき、困った。
あのひとは伊佐名三月というらしい。
彼によく似合いの名前だと思った。三つの月夜に、いさな――鯨が飛沫を上げながらしかし凜と海面に飛び上がって、浮いていて、あの高い鼻でなにかを吸うように冷たく澄んだ空気を待っている。どこか遠くを堂々と眺めている宵の横顔。
一目惚れなんて子どものするものだと思っていた。もうはたちを超して数年経つのに、一瞬で魂を抜かれたように腑抜けになっている、たった一人に。言葉を交わしたこともないのに、なにを馬鹿なことをしているのだろう、僕は。
いっそ何も飲まず食べずに帰ろうか、と思ったところに、背を向けたレジ側から朗らかな笑い声が聞こえてきて耳を澄ました。ぱっと顔を上げる。わずかに一度だけ聞いたことのある、三月の声だった。
肩越しに振り向くと、会計中の客と談笑している三月の姿が、レジカウンターの向こう側にあった。思い切り笑うと垂れる目尻が可愛らしかった。
数秒も見続けていられず、すぐに店内の背景に溶け込もうとした。しかし不意に、陽の中のもう一人の陽が自分をすくっと立ち上がらせて、よたよたしながらもカウンターの方向へ歩き出させた。もう後へは引けなかった。ケーキなどが陳列してあるガラス棚がどんどん近付いてきて、いま去って行った客から受け取った金銭を整理している三月に、着実に近付いていく。
陽が「あの」と声をかけると、三月が目を上げた。
「あ」
彼は陽の顔を覚えていたようで、注文に来たのが陽だとわかると、瞬時に、人好きのする表情でにっこり破顔した。
「君は、瑛次の大学の。来てくれたんだ」
三月はさらりとしたオフホワイトのシャツを着て、腰に黒いカフェエプロンを巻いていた。陽との初対面の時にはガッと分けていたワインレッドの髪の前を、今日は下ろし、ベレー帽をかぶっていた。前回は、パーカーにジョガーパンツを履いた緩い私服のシルエットだったので、印象ががらりと変わった姿に胸が高鳴った。
陽はつい背筋を伸ばした。
「瑛次先輩から、あなたの仕事先を教えてもらいました」
「ああうん、聞いたよ」
そう言いながら三月は、立ったまま軽くカウンターに肘をつき、薄い瞼のかかった凜々しい瞳で陽をまっすぐ見た。
「大学ではあいつが随分お世話になってるみたいで」
「いえ、そんな。むしろ僕がすごく頼りにしちゃってます。あなたのことも――」
「三月」
「えっ?」
「俺の名前。三月だよ。三月先輩でいいよ。いや、先輩はおかしいか? 三月さん?」
「そ、そんな」
「好きなように呼んで」
三月の朗らかな笑顔に遠慮して、陽は慌てた。
「下の名前で呼んでいいんですか?」
「いーよ。瑛次の友達は俺の友達」
そして、三月は営業用のにっこり笑顔に切り替えると、爽やかに言った。
「ご注文は?」
「ええと、じゃあ、キャラメルマキアートのアイスを」
「以上?」
「はい」
「お名前は?」
「名前? えっと、陽です。楠木陽」
「うん、知ってる」
三月は、へにゃと笑った。
「カップに書きたくてさ。漢字はどう書くの?」
「あ、そういう意味ですか……。漢字は、太陽の陽」
「太陽の陽。オッケー。できたら呼ぶから、座って待ってて」
ふやけたように返事をして、浮かんだ気持ちのまま席に戻った。
十年分の緊張を使い切ったようにぐったり疲れたが、数分後、三月に名前を呼ばれたとたん、肩に乗っていた疲労の全てが吹き飛んで空を飛ぶようになった。
陽の注文を受け渡しカウンターに置き、傍で待っていてくれた三月に急いで駆け寄り、礼を言う。三月は、人の目をよく見ながら話す人だった。
「今日のシフト、閉店までだって瑛次先輩から聞きました」
カップを受け取りながら、勢いをつけてそう言うと、意外な話題に少し驚いたように、三月は目を丸くした。
「うん? あ、俺? うん、そうだね」
「終わるまで、待っててもいいですか。もしよければ、その後どこか食事でも……」
「え、ほんと? 遅くなるよ」
「待ってます」
陽がぱっきりと言うと、
「そしたら――」
と、三月は片方の手首を振って腕時計を確認した。
「――そしたら、あと三十分くらいゆっくりしててくれる? 早めに上がるよ」
「三十分? でも、シフト……」
「俺、優秀だから、ちょっとくらいわがまま言っても融通きくんだ。早上がりなんて簡単だよ」
三月が悪戯に笑う。
その気遣いも、覗いた白い歯さえも魅力的で、陽はキャラメルマキアートが注がれたカップを持ったまま後ろに倒れそうになった。
本来であれば閉店まで働くはずだったのだろうが、早めに終わらせてくれるなんて、そんな勝手を自分のためにしてもらう申し訳なさに一瞬断りそうになったが、さすがに待ちますとまで言っておいて、更なる勝手は言えなかった。
それに、この人と会えるなら、三十分の待ち時間なんてあっという間だ。
実際、陽は、待った気持ちの全くないまま三十分後を迎えた。追加で注文したチーズケーキを頬張り終えた頃に、ついさっきまではなかったはずのカツ、カツ、というチェルシーブーツの踵の音が近付いてきて、おまたせと声を掛けられる。バッと顔を上げると私服に着替えた三月が立っていて、陽はまた気が遠くなりそうになった。ベレー帽が消えた代わりに、細く赤い前髪はセンターでふわりと分けられていて、シャツとカフェエプロンを脱いだ代わりに、黒のブルゾンとゆるいシルエットのジーンズを身に纏っていた。全身セリーヌだった。
気楽にダイニングバーにでも入ろうかという流れになり、適当な店舗を求めて街を歩いている間も、陽は隣を歩く男をあまりにも意識し過ぎて何度か躓いた。日が落ちてきて薄暗くなり、少々肌寒くもなってきた外気をかき分けながら歩いていると、「大学では何を専攻してるの?」とか「出身も東京?」とか話してくれる三月に返事をしながら、ああ、この人はどんな人なんだろう、どこから来てどこへ行くのか、行く末を果てまで一緒にいたいなどと考えてしまい、もうすっかり骨抜きになっている自分に呆れもした。
店に入って席につく。正面で向き合う形でテーブルについてしまったことに半分後悔しつつ、もう半分では舞い上がって、陽は三月と穏やかな時間を過ごした。
三月は不思議な人だった。
濃い茶色の瞳にまっすぐ見つめられると、胸の奥底に眠っていた新しい感覚を抉り出されるような緊張が起こってくるが、同時にひんやりとしたシーツに脚を伸ばす瞬間のような心地良さも感じて、目を逸らせなくなる。新鮮で強烈な出会いに動揺しながらも、忘れている記憶をくすぐられるような根拠のないもどかしさもあった。今まで経験してきたことは未来で、これから経験するものが過去になるような、なんとも形容し難い状況だ。存在そのものが矛盾で構成されているようだった。
だから陽は混乱していた。
自分が溺れつつあるのが一目惚れから始まった恋なのか、それとももっと何か別の――例えば、新たな章が幕を開けたばかりの重大な物語に足を突っ込んでしまったのか、わからなかった。
三月を見つめるたび、死体を描いた絵画の前に立っているような残忍な恍惚感があった。三月に見つめられるほど、取り返しのつかないことになっていく気がした。
恐怖を伴う美しさとは、後悔を伴う門出とは、一体何だ?
「チーズケーキ食べたばっかで、あんまり入んないんじゃない?」
三月が、フォークで支えた分厚いステーキにナイフを突き立て、前後に押したり引いたりしながら言う。
「きつかったら俺が食べるから、言って」
「ありがとうございます」
陽は飲み物を喉に通した。本当はお酒が飲みたかったが、ここで酔ってしまったらとんでもない発言や行動に出てしまう可能性が高かったので、我慢した。
「結構食べるほうなんですね? 意外です」
「俺?」
「はい。お肉、好きなんですか?」
街を歩いていると振り向かれるくらいには目立つ見てくれをしているので、きっとストイックに運動をしているのだろう、と思った。
「うん、好き」
目を伏せて、しゃくしゃくと咀嚼しながら微笑むから可愛らしい。
陽はしばらくぼうっと三月を眺めていたが、ウェイターが横を通ったことで我に返り、目の前の食べ物に目を向け直した。
そのタイミングで、今度は三月が陽を見る。
「食事の時間が一番幸せ。そう思わない?」
「そうですね……」
陽は口の中の物を飲み込み、続けた。
「僕は寝るときが一番幸せかも。家に帰って、シャワー浴びて全身綺麗にして、布団に潜ってうわーって伸びる瞬間、最っ高です。僕、暗くて狭いところとか大好きで」
「あー、陽ってなんか猫みたいだもんな」
猫よりも名前を呼ばれたことにびっくりして、フォークを取り落としてしまった。
「でもそれ、わかる。俺も暗くて狭いところ超好き」
「あ……ええと、いいですよ、ね」
「太陽なんて一生出なくていいのにな」
「はは……」
心臓が耳元まで上がってきたよう。
陽って呼ばれた。陽って。
それだけで、全身の血液が沸騰した。
「僕って猫みたいですか?」
いっぱいいっぱいなのを誤魔化すように言うと、三月は完食した夕飯を前に満足そうに笑い、うん、と頷いた。
店から出ると、頭上には小さな三日月が浮かんでいた。
後から店を出てきた三月は、上着をきちんと羽織り直していた陽を見るなり「おっ」と腕を掴んで引き寄せた。すると、その背中のすぐ傍を、陽と同い年くらいの学生の集団が自転車を飛ばして駆け抜けていった。
陽ははっとし、礼を言った。三月の年上らしい姿に感激したのか、目をキラキラさせている。
「どの辺りに住んでるの? 家まで送っていくよ」
そう言うと、陽は嬉しい気持ちを素直に表情に出した。顔中で微笑み、ありがとうございます、と呟く。
それから二人は、共通の知り合いである瑛次の噂話をしたり、お互いの話をしたりしながら、しばらく歩いた。
僕の家、ここです。と陽が足を止めたのは、一人暮らしをする学生などが多そうなアパート街で、二、三階程度の比較的低層の賃貸が並ぶ一角だった。街灯の他に、ぼんやり足元を照らすフットライトがぽんぽんと一列になっていて、道端のアパート名や植物を淡く照らしていた。
弱い街灯に照らされた陽の横顔が、笑顔を保ったまま三月を見た。それから口元をむにむにと動かして何かを言おうとしてやめ、やめようとしてやっぱり言った。送ってくれてありがとうございました、と、体をゆらゆらさせながら落ち着かない。
沈黙が流れる。
「じゃ」と言って去ればいいものの、両者ともただ立って窺っていた。
三月は口元に薄く笑みを浮かべたまま、足元に目を落としている陽を見ていた。彼の緊張が直に伝わってくるようで、可愛らしくてどうしようもなかった。取って食いたい衝動を背筋に収めておく感覚に、ぞくぞくする。腹が鳴った。
どう誘ってくれるんだろうな、と思い待っていると、そのうちに陽の頬から徐々に微笑みが消えてきて、終いには三月を上目に、遠慮がちに見据えた。
そして、小声で言う。
「初めてのデートで相手を家に上げるような人、三月先輩は嫌いですか」
静かな住宅街だ。遠くの通りを車が走る音がする。
三月は不安げな陽に一歩近付いて、同じように囁いた。
「嫌いじゃないよ」
視線が絡む。
陽は体の無駄な動きをやめ、じっと三月を見つめた。
「むしろ好きだな」
そう付け加え、また距離を縮める。少し首を伸ばせばキスでもできそうな位置になった。
陽は薄い唇を開いて短く呼吸を繰り返していたが、三月がわざと悪戯に言った「好き」という言葉を唾液と一緒にごくっと飲み込むと、耐えきれなくなったかのように眉を寄せた。三月の唇から目が離せないかのような仕草で、やっと視線の先を目に戻す。
「一人暮らしって寂しくて、僕、あんまり家にいないんです。友達のアパートに泊まったりしてばっかりで」
「うん」
「だから、部屋は綺麗なほうだと思います」
「そう」
「……お、お風呂も、すごく綺麗です」
三月はつい吹き出した。
「はは、君は誘うのが下手くそだな?」
耳まで真っ赤になった陽が、また口先をもにょもにょ動かして何か言っていたが、三月が笑いを引っ込めてじいっと見つめると、魂を奪われたかのように静かになった。
「俺に興味があるの?」
と、三月が。
陽は肺を大きく膨らませて、深呼吸してから返事をした。
「はい」
「君はゲイなの?」
「はい」
「経験もあるんだ?」
「はい」
「普段はどっちをするのが多い?」
「あ……ウケ寄りのリバです」
「そう」
三月の手が陽の背中に触れて、腰へ下がり、そのまま尻にまで下りてきてそこを撫でた。
「君相手だったら、俺がタチをしたいな」
と、低く言う。
陽は、きゅうと眉を寄せ、情欲を誘うような切ない表情をみせた。
「はい。なんでもいいです、なんでも……。だ、抱くなり煮るなり、なんでも、してください……」
と、ぽーっとしながらムニャムニャ言う。
【サンプルおわり】
「ぜ、全部、全部してください」
「全部?」
「っ先輩、に、めちゃくちゃにされたいです……」
蚊の鳴くような声だった。
「人間は愛の証明のために誰かと性行為をする傾向があるけど、多くの吸血鬼にとって人間とのセックスは、獲物を喜ばせて血を美味しくするための狩りの一種でしかない。俺の知る限り、三月も例外じゃない。むしろ、これまで何十年もそうやって生きてきた、その傾向が強い奴だ」
一ミリも動こうとしない陽を見下ろし、瑛次は鼻からため息をついた。
「愛されてるって誤解しちゃうのは仕方ないさ。だって陽は、人間なんだから」
「お前はずっとこの味が知りたかったんでしょ」
そう言い、壱依は数センチしかない小瓶のコルクを爪で引き抜き、再びテーブルに置いた。
この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。だってこの人の瞳には毒があった。出会いをなかったことにするには、この因果性の中であまりにも存在が強烈で、寂寥的すぎた。
「なんで出会っちゃったんだろ」
三月は笑った。
細かいシワの寄った目尻から透明の液体がつうっと伝って、頬へ滑った。赤い虹彩から透明な液体があふれ出てくるのが不思議で、呪われたように美しかった。
「陽」
三月が呟く。
もう瞼を持ち上げる気力さえ残っていないようだった。
「おやすみ」