世界の終わり、敵でも味方でもない森

 突然、周囲の音のボリュームが数段階上がることがある。コンマ数秒のあ、くる、という予感をもってぐんっと音が大きくなり、例えば食器の触れ合う音とか隣の席の会話とか「コーヒーは食前食後どちらにいたしますか?」とかが、急に、私に覆いかぶさるように鳴り響く。私はそれに耐えてじっと身を固める。大きくなった音に体を慣らしてなだめてゆく。気が付くとそれが通常の音量となっていて、音が直ったのか体が慣れたのかわからないままぼうっとしている。そういった現象が稀にある。

 

 そんな風に終わるのだろうか、この世界は? あ、くる、というコンマ数秒前の変な予感を経て、境目のないうちにじわじわと全てがはじけ飛ぶ。人間は自らの住む環境に変化を加えるほどの知恵と傲慢を手にしたが、その変わりゆく環境に適応できず滅びようとしている。小学生のときの夏休みの自由研究で地球温暖化について取り上げ、地球の死を具体に予感して恐怖したのを今でも鮮明に覚えている。一方で、今、戦争の放棄がいつになっても成し得ないのはヒトが進化しきれていないからだと思っていた――ようはここは過渡期なのだと。しかし過渡期のうちに星を破壊したんじゃあ元も子もない。

 

 おそらく世界はこうやって、混沌のまま静かに、明日がやってくるみたいに境界なくじわじわと終幕を迎えるのだろう。苦しむだろうか。痛いだろうか。暑さか。餓えか。権力による抹殺か。どこまで正義を貫けるだろうか。どこまで誰かと一緒だろうか。終わりまでどう生きるかが尚更深くなってくる。(日記より抜粋)

 

 国は戦争の準備を着実に進めていて、独裁国家への道をどんどん突き進んでいくし、パレスチナは解放されないし、地球の異常気象はもう目も当てられないし、バングラデシュやイギリスなどを見ていると自分の無力さに悲しくなる。そんな中、大国はオリンピックなどやっている。本当に、気を抜くと虚無に支配されそうになる日々だ。諦めるのはきっと眠るように心地いいだろう。それでもそうしたくないという意地がまだあって、だから自分の中の疲れや失望をごまかしごまかし立っている。人生に意味はないのだと確信したくて哲学を読む。読むとさらに世界がわからなくなって、日曜日の午後三時に昼寝をしてはまた実家で泣き叫ぶ母親の夢を見る。

 

 心療内科の予約は今日もできなかったけれど本は買える。毎日毎日、時刻はともかく時間とは何なのか、なぜ人は他人の変化に寛容ではないのだろう、あなたの見ている世界と私の世界は別物であること、フレイセクシュアルのこと、諦めた目標のこと、夏のこと、……色々考えているけど、とにかく文字にして書くことにしてからわりと眠りが深いように思う。「嘘をつかない」という決まりをひとつ定めた日記を書く習慣が、このごろ毎日楽しい。

 

 それと最近のマイブームがもう一つ、街から離れて自然の中で読書をすること。日焼け止めと虫除けは必須だけれど、良い日影に恵まれさえすれば、本と傘と飲み物だけでこんな季節でも快適に過ごせるのである。じっとしているから風があれば案外涼しい。……社会の時間の流れが私にはあまりにも早くて、常に急かされているようで嫌で、順応しようと焦っていると「相変わらず仕事が早いね」などと褒められて、全然違う! と思いながら解放されたくてもがいている。それで、息継ぎを求めて海面に顔を出す生物のように森や湖に行ってみている。

 

 ある日は、ゆっくり自然に触れ合おうと思い散策路をしばらく歩いたりもしたが、途中にある「マムシに注意!」「ハチが飛び交っています」「たぬきの溜め糞ここ」などの看板にいちいちビビってしまい、のんびり森林の空気や葉の音を味わったりなどできなかった。勝手に「社会生活が嫌だ。自然に還りたい」などと思っていたが、そもそもヒト属の故郷は森ではないのだ、と思い出す。疲労の色が隠せない近頃の自分を少し愛おしく感じている。昔は自分が疲れているのかどうかすらわからなかった。どう生きていきたくてどう死んでいきたいのか、世界の終わりの日にどういう背格好でいたいのか、自分の話を聞いてやる。

 

 地球温暖化のことを知って、怖くて夜眠れなくなった小学生の頃の自分を思い返す。当時それでもまだまだ遠いと思っていた世界の終わりを、今は十年後のことのように感じている。森の中心にひとり座っているときの孤独は人生だ。私のことなどそ知らぬ森。