ゆっくり生きたい。静かに生きたい。毎日おいしいものを食べて、本を読んで、淡いライトの下で自分と向き合って感情を一枚ずつ包むようなそんな日々を過ごしたい。そうするためには社会に対して怒らねばならず、絶望もセットで無気力に支配されそうになる。
誰かとわかちあいたい。そう思うけれど、自分が自分の親友になってあげたい。そうも思う。他人とめまぐるしく会話したあとの脳内はうるさすぎる。
夜が好きなのは暗いから。誰もが無防備になっている気配がするひんやり静かなあの時間帯が暗いから。重力のない黒い空間に星が瞬いて、体が浮かんでふわふわして、別世界に行ったみたいに落ち着いた旅の気持ちになれる。全部の輪郭とか、境目とかがあやふやになって、攻撃とか、離別とかが遠のいていく。夜は夜だけの世界だ。それ以外の雑音はない。
暇さえあれば、追い風に吹かれながら曇りの海辺を歩く風景を思っている。理論に沿うと私の人生に他人の目線はいらないはずなのに、例えば友達とスローテンポで飲むアイリッシュコーヒーは毒のように優しい。人生。自分の死体に触る夢を見て、ぼこぼこ穴が開いている家の壁の夢を見て、私の頭の形の穴だったなあと思う。
次から次へと人権を疎かにするこの社会で、どうすれば自分ひとりの小さくて寂しい世界を守りながら生きていけるのだろう。反省も、不安も、自己嫌悪も日々ある、一緒にいたら疲れるとわかっている人と付き合わないといけない、労働にもはや意義や研磨はない。悪い人はいないのだと呪文を唱えながら、足を踏むのをやめてくれと叫ぶ。行ったこともない国の子どもの死体を見過ぎて、死体が夢に出てきすぎる。ささくれ立った荒波みたいなこの世界で、自分だけは自分で守らないといけなくて、しかし歯車はすっかり資本の形状をしている。すみかをココアみたいに包んで歩んでいけたらいいのに。
4月4日の日記「労働時間外に仕事の話してくんのやめろ 金取るぞ」
資本主義に抵抗しながらアイドルを推すことはできる。作品の良くない部分を批判することと、良くない部分を理解しながら好きでいることは両立する。フィクションの構成要素として暴力表現を好みながら、現実社会で暴力を否定することはできる。ようは向き合い方で、描き方で、どこまで真面目でいられるか、その正気を試されている。自分に。これが腑に落ちるまで五年くらいかかった。