ハッピーエンド

 ※本編終了後、数年後の話

 

 

 

  一  向日葵と菊

 

 

「彼はとても人当たりが良くて、いつもにこやかで感じの良い人でした。頭も良かったし、レポートなどの提出物も期限前にきっちり出すタイプでしたし、体育祭でも活躍してたり、あと、まあその、容姿も整ってましたので……。うちの大学は大きいほうでしたけど、結構有名な人でしたよ。もちろん良い意味で。私も一時期片思いしてましたから。え、なんで付き合わなかったのかって? そりゃあもう、彼女さんがめちゃくちゃ綺麗なお嬢様でしたから。彼女さんのほうも美人で有名だったので、あの二人が付き合ったと聞いた時は皆お似合いだねーなんて話してましたよ。結婚も納得でしたし……。式はやらなかったんですけどね。見たかったなあ。すぐ赤ちゃんが生まれたみたいで、新婚旅行も特に行かなかったみたいです。旦那さんが中退しちゃったのも、多分結婚と奥さんの妊娠が関係あるんじゃないですかね。赤ちゃんは小さい頃に会ったことあるんですけど、どっちかというと父親似だった気がします、可愛かったですよ。平和な家庭に見えました。長男が生まれてから二年後くらいかな、弟も生まれて、その頃くらいに新居をK県の方に買ったので、あまり会わなくなっちゃいました。それなので、その後のことはよく知らないんですけど……。ただ、確かに考えてみれば、二人とも一度も同窓会に来なかったし、だんだん遊ぶはおろか会うこともなくなりました。訃報を聞いた時は本当に驚きましたが、もちろん、お葬式には参列しました。旦那さんはその時に、随分しばらくぶりに見かけましたが、相変わらず飄々としていて歳なんか取ってないように見えましたね。ええ、さすがにその時は私も違和感を覚えました、あまりにすっきりした顔をしていたので……。仲の良い夫婦の印象しかなかったので、最愛の妻を亡くしてどうして平気な顔をしていられるのか、不思議でした。彼のお葬式は行わないそうですね。え、ああ。ご存じありませんでしたか。そうなんです、ご親族の方々のご意向みたいで……。あれほどの人だったので、異例ですよね。最後のお別れを言いたい方が続々いて、会社側からも葬儀をするようお願いがあったみたいですけど、結局やらない方向みたいです。まあ、まだ若い息子さんには酷ですもんね。そう、その息子さん、本当に奥さんの生き写しなんです。私、春花ちゃんが生き返ったのかと思っちゃった」

 ボイスレコーダーの音源はそこでぶつりと切れた。

 彼はそのちんけな機械をテーブルに放り、退屈そうに伸びをした。着慣れないスーツのジャケットの窮屈さには肩が凝った。

 すると突然、静かだった一人の会議室に、電話の着信音が鳴り響いた。

「あ、もしもーし」

 相手は従兄だった。出ると秋晴れのような柔らかい声が鼓膜を擽る。

「今どこにいる? もしかしてもう待ってくれてる?」

「えぇ、まあ」

「ごめんね! すぐ行くから!」

「慌てないでください。元から今日、そんなに忙しくなかったので。時間はいくらでもあります」

「そっか、ありがとう!」

 赤ん坊の元気に泣き叫ぶ健康な声が背後に聞こえた。

 電話を切ると、またそこはひんやりとした会議室に戻った。

 大きく開かれた窓に歩み寄り、街を見下ろすと、人や車が豆粒のサイズで忙しなく左右に流れているのが見えた。

 ここから飛び降りたら間違いなく「死ねる」だろう。彼は窓から後退する。

 そして彼は胸に手をそっと当て、神を仰ぐ宗教徒のように空を見上げた。

「今日も生きてる」

 彼は瞼を閉じた。

「今日も幸せだ」

 

 

 従兄が持ってきたボイスレコーダーの音源は、先ほどのものよりは価値がありそうで期待が高まった。用意してきたUSBにデータを移動し、念のためプライベートクラウドにもバックアップを取ってから、秋成に音源を返した。

 予想的中、彼は今日急遽次女の面倒を見ることになったらしく、警視庁に到着した時にはなんだか緩やかで平和な空気を纏っていた。妻の沙緒理はというと、今朝急に短期間出張が条件付きの仕事を任されたようで、それなので秋成が娘を預かる流れになったらしい。

「参っちゃうよね。幸せな悩みだけどさ」

「元気ですか、娘さん」

「うん。おかげさまで」

 秋成は眉を下げて笑うと、本題に取り掛かるため仕事用の空気を持ち出した。

 彼は公私の切り替えが巧だ。昔からそうだった。

「多分、そっちの取材データより――秋成はテーブルに放り捨ててあるSDカードを指差した――こっちのほうが良い情報が含まれてると思うよ。なんたって、こんなに長い間警察に押収されてたんだからね」

「そうでしょうね。今じゃ立派な刑事事件ですから」

 丁重に音源をしまう秋成を見ながら、じっとりと言う。

「正直、事情は民事事件レベルですけど」

 それを聞くと、秋成は意外そうな表情で顔を上げ、「本当に?」と目で問うてきた。迷わず頷く。

「こんなのお家騒動ですよ。我が家のね」

「まあ、そうかもしれないけど……。殺人が起こったのは事実だよ。それが起こった背景を考えても、日本中がまだこの事件をよく覚えてる理由はよくわかる」

「えぇ、もちろん。ワイドショーやネット住民にとっては大きな種です。残された者にとってもそう」

 彼は心臓を守るように胸元に手を乗せ、そこに留めてある秋霜烈日に指先で触れた。気遣わしげに向けられる世間の目にも慣れてしまった。世をぞっとさせた悪質な事件を動機に正義の道へと走る姿は、いらぬほど同情と感動を誘うらしい。

 信仰は必ずしも清廉潔白なものとは限らないというのに。

 匿名で本音が現れるインターネットの海では、まあまあ酷い言われようだってしている。過度な憶測は生き残りの者を黒幕にしようと仕立て、興味の尽きぬ詮索は一家の住所や非公表にしている家系すら暴いていく。今じゃ従兄の秋成だって当事者の一員だ。

 彼は胸元のバッジから手を離した。

 ここにこれが光っているのは、誇りでもあったが不名誉でもあった。

「菊の花が似合うね」

 秋成はそう微笑む。

「褒め言葉ですか?」

 皮肉に言う。秋成は首肯した。

「似合うよ。本当に」

「椿の花のほうが似合うんじゃないですか」

「それは……うん、そうだね、えーと、似合うよ」

 こちらのほうは本音ではないようだったので、つい軽く笑ってしまった。先ほどから誰かの名前が見え隠れしている。

 秋成はかねてからの夢を叶え、弁護士の職を完璧に全うしているというのに、身内に対しては奇妙なほど心優しく感傷的だった。特に「椿木」の姓を将来的に受け継ぐ者がいなくなってからというものの、それに拍車がかかっているようにも感じられた。吊り橋効果ではないが、そういった類の関係性を、残された者の間で感じ取っているのかもしれなかった。

 優しすぎる人は多く不必要なほど傷付く傾向がある。

 かつて、そんな女性もあった。

 愛した者を信じたあまりその美しい命を落としたひとが。

「氷には、椿のほうが似合いますか。そして、僕には菊」

 秋成は一瞬ぎょっとしたような目の色を見せたが、すぐ消し、降参の笑みを浮かべた。

「ごめんね。せっちゃんには検事が似合うって言いたかったんだ」

「ありがとう。貴方にはその向日葵が似合ってますよ、秋成さん」

 秋成も礼は述べたが、含みを持たせた物言いだった。胸の弁護士バッジにやはり触れながら、惜しそうに続ける。

「もう少し早く弁護士になってたらなって、よく思うよ。俺なら本当の事情もわかるし。氷が一方的に悪いわけでも、夏生さんがそうなわけでもない、ましてやせっちゃんだって」

「秋成さん、仕事に私情を挟むのは、」

「良くないのはわかってるよ。だからこそ仮定の話なんだ」

「……」

「俺が戦いたかったよ。法廷で」

「僕だって戦いたかったですよ」

 雪は立ち上がり、会議室の扉へと足を進めた。

 窓の外ではいつの間にか雪が降っていた。

「なんて、言うと思いました?」

 氷を亡くしてから十回目の冬だった。

 事件の後、雪は唯一の親戚である従兄の秋成の実家に身を寄せることになり、秋成が昔使用していた部屋を借りてしばらくお世話になった。かつての、春花が生きていた頃の「椿木家」を彷彿させるあたたかな家庭で、まるで愛情に包まれた平和な家族の見本の中で暮らしているかのような気分になり、雪は逆に落ち着かなかった。どこかにテレビカメラでも仕掛けられていて、突然「ドッキリ大成功」とか何とか書かれた看板を担いだ誰かが出てきたとしても、さほど驚かない自信があった。しかし、衝撃ではあったがそれが秋成の育った環境で、秋成の家、山茶家だった。

 山茶家で勉学に励み、雪はそうして高校を卒業した。入学当初からパッとしない成績をなんとかおさめていたような生活を続けていたが、最終学年に上がった頃にはぶっちぎりで学年トップを飾り、全国模試でも安定して毎度上位三十位以内に入るようになっていた。進路希望調査では、法曹界に何人も優秀な人材を輩出している有名大学を選んだが、誰一人としてその受験を止めなかった。判定も常に「S」だった。無論、現役合格し、面倒をかけた山茶家に別れを告げ、都内で一人暮らしを始めた。大学生活は華こそ足りなかったが、華を与えようとする女学生達を押しのけ払いのけ、勉学にのみ集中し、見事志望通り検事となった。

 傷付き脅えて小さく縮こまっていた少年が、一体なぜ、背筋の伸びた立派な好青年へと進化を遂げたのか、理由は本人にしかわからない。

 人から聞かれたときには、雪はにっこり微笑みこう答えるようにしていた。

「さあ、これもきっと、これまで僕を育ててくれた方々と、周りのみんなのおかげです。ありがとう」

 

 

 

  二  菊と桜

 

 

 マンションへ帰ると、今夜も氷のスマートフォンにメッセージが届いており、簡単に夕食を済ませた後、無表情のまま決められた作業のように中身を確認した。

 白石櫻子は、彼女の元恋人が亡くなってから十年の月日が経っても、まだ彼の死亡が認められないかのように、律儀にも毎日メッセージを送り続けてきていた。今は端末をその弟が所持していることを知ってか知らずか、さらには、その弟が兄のスマートフォンの指紋認証を解除できることも知ってか知らずか、惜しげもなく本音を送りつけてくる。

「氷、今日は大学の入学式だったよ。私の学部、女子が多いからすごく楽しそう」

「今日はサークルの見学に行きました。いろいろ見たけど、結局テニスにしたよ。ユニフォームが可愛かったから」

「授業はおもしろいです。氷も大学に来れたらいいのにね」

「今日、サークルの先輩から告られた。あんまりタイプじゃないから、お断りしました」

「今日から文化祭の準備。めっちゃ忙しいです」

「寒くなってきたね。昨日先輩に連れて行ってもらったイタリアンがすごく美味しかった」

「よくわかんないんだけど、私さっき、先輩に犯された。かも」

「先輩が毎日電話してくる。着拒もできない。こわい」

「氷、私、今になって氷がどれだけすてきな彼氏だったか、わかるよ」

 今日のメッセージはこうだ。

「今日は雪、ホワイトクリスマスだね。メリークリスマス、氷」

 一度も返事を返したことはない。

 雪は持ち帰ってきた仕事関連の書類を一通り片付けると、軽くシャワーを浴び、ゆるい部屋着でソファーに横たわった。肘掛けの部分に足首を預ける。ソファーの隣に置いてある背の高い観葉植物の葉がスリッパの先に触れ、爪先をひんやりくすぐった。

 雪はそして、自分のプライベート用のスマートフォンを開き、クラウドに預けておいた秋成からの届け物を選択した。録音の日付は、十年前の冬になっていた。

 タップするとパスワードを入力するよう促された。秋成から教わった英数字の文字列を打つと、再生が始まった。ボイスレコーダーのスイッチをつけたような物の擦れる音がガサッとしたあと、インタビュアーの男性の声が話し出した。

 雪は目を閉じる。

 まるで、あの冬のあの場所へ戻ろうとしているかのように。

「――では、始めます。あなたの名前や顔を公表することはありませんし、この音源も公に出るものではありません、ので、あなたにもし我々の捜査に協力する意志があるのであれば、真実を話してください」

 間がある。取材されている相手が頷いたのだろう。

 インタビュアーはおそらく警官だと思われる。

「まず最初に、あなたは椿木夏生、椿木氷とは、どういった関係ですか」

「その親子についてはよく知りません」

「と、言いますと」

「私は椿木氷さんの弟さんの同級生です。同じ高校に通っています」

 雪は目を開けた。聞き覚えのある若い女性の声だった。

「弟。椿木雪ですね」

「はい、椿木雪さんです」

 声は、インタビュアーが人の名に「さん」をつけないことに苛立っているのか、必要以上に強めの語調で言った。インタビュアーは気にも留めない。

「では、あなたから見て椿木氷について知る限りのことを話してください」

「はい」

 聞きたがっているのがあくまで「氷」と「夏生」のことであると察し、彼女は諦めた。

「私個人の感想ですけど、先輩はとても怖い感じでした。私、生徒会の書記をしてるんですけど、椿木先輩は生徒会でも有名です。金髪、喫煙、ピアスなど、校則を破りまくっていましたから。目立つ人でした。校内で暴れたりはしなかったですけど、そんな格好だったので。ただ……」

 彼女はそこでいったん言葉を切り、続けようか迷ったような間を取ったあと、静かに話を進めた。

「ただ、私は、皆さんが言うように椿木先輩が全て悪いとは思いません。先輩の、というか、先輩とその弟さんの家庭環境が良くないものだったのは、部外者の私にだってわかります。前に、弟の椿木くんの誕生日を祝いたくて、学校帰りに自宅にお邪魔したことがあるんですけど、その時に先輩と椿木くんが二人で暮らしていることを知ったんです。お母さんは亡くなったと聞きましたが、お父さんのことは、はっきりとは教えてくれなくて。ただ、先輩も椿木くんも、お父さんのことは良く思ってないのは明らかでした」

「ふうん、弟のほうも」

「はい。というより、どちらかというと椿木雪くんのほうが」

「ほうが?」

「嫌っているというか、憎んで……いや、確かに椿木氷先輩はご自身のお父さんを憎んでいるようでしたが、椿木雪くんのほうは、ほとんど無感情なのかなと思いました」

 雪は音源の音量を上げ、立ち上がった。コーヒーメーカーの前に行き、厳選した豆を挽く。やがて香ばしい匂いが部屋に充満した。桜井若菜は話を続けた。

「あの兄弟がどういった家庭環境で育ったのか、彼らの両親と何があったのか、詳しいことは知りません。でも、椿木先輩が一時の感情だけで父親を殺したとは思えません。幼い頃から家庭内暴力を受けていたら、そりゃ精神も不安定になります。自殺の理由は、見当もつきませんが……」

 一瞬の間があり、突然話題が変わった。

「君、日本の死刑制度には賛成? 反対?」

「今、その話が何か関係ありますか」

「僕はね、賛成です。でも、今回のように、犯罪者に自分から死なれちゃ困るんですよ。自殺をした者は地獄へ行くというのはよく言われるけど、罪人は裁くべき人が裁かないとだめだ。そしてそれ相応の償いをしてもらわないと。正義が罪人をちゃんと地獄へ送り込んでやらないと。なのに、椿木氷はただ逃げただけ。逃げに自殺を選ぶなんて、まともな人間じゃないね」

「自殺の理由はわかりませんと言ったはずですが」

 雪は挽き上がったコーヒーを啜った。若菜の声が明らかに怒っていたので、気分が良くなった。

 インタビュアーは構わず続けた。

「家庭内暴力があったことは確かだ。実際、兄弟の母親の椿木春花は、夫である椿木夏生に殺された――若菜が息を飲む音がした――。彼女は日常的に椿木夏生からDVを受けていたようだ。なぜそんな男と大人しく夫婦なんてやっていられたのか、理解に苦しむが。そして、椿木雪も兄である椿木氷から日常的に暴力を受けていたようだ。性暴力も含め」

 インタビュアーは若菜の反応を待ったような間を空けた。彼は、若菜がすでに雪と氷の間にあった性的な関係のことも知っていることを知らなかった。

「まったく、狂った家族だよ。まともなのは椿木雪くらいじゃないか?」

 世間的には、『椿木氷は、椿木夏生の慢性的な家庭内暴力に耐え兼ね逆上して殺害したあと、自分の殺人罪に脅え罰を逃れるために自殺した』という説が最もよく見るものだった。椿木春花と椿木雪は、かわいそうな被害者であり事件の部外者だ。どこの誰だかわからないが、このインタビュアーもそれを支持しているのだろう。当然、世間にはいらぬ憶測や妄想を繰り広げ、春花や雪、秋成までもを悪者にする説も存在する。欠伸が出る。正解などどこにもない。

 雪は音声を止めようと、スマートフォンに手をかけた。

 若菜の声が最後に言う。

「私には誰がまともで誰がそうじゃないかなんてわからない。わかるのは、私がたまたままともな家庭で育つことができた幸運がここにある、ということです。もう行っていいですか」

 

 

 翌日の夜、雪は若菜と待ち合わせし、食事へ出かけた。到着した若菜は会社の制服にカーディガンを羽織っており、「残業で着替えられなくて」と苦笑した。

「髪切ったんだね、桜井さん。似合ってる」

「え、あ、あぁ……ありがとう、そんなことないと思うけど……」

 彼女の何度も前髪を撫でつけて照れを隠す癖は、昔から変わっていなかった。

 若菜は「大人の男性」になってしまった雪を前にするとすっかり舞い上がってしまう様子だったが、同時に何か恐怖のようなものも感じ取っていることは間違いなかった。あのインタビューの録音をしっかり聞いた後だと、その現象にも納得はいくが、だからといって彼女と一定の距離を取り続けることをやめる決断には至らなかった。一定の距離。ずいぶん近いほうの意味だ。

 高校時代から付き合いのある人物で、今でも変わらず親しくしているのは彼女のみだった。高校生活で友達と呼べる人がいなかったという事実もあるが、雪は彼女の存在に幾分寄りかかってきた自覚があった。兄の死後、真っ先に連絡をくれ、傍に駆けつけ、世間のどんなに冷たい目に曝されようと常にわかりやすく味方でいてくれた。

 今、親友は誰かと聞かれたら、もしかしたら彼女の名前を答えるかもしれない。

「彼氏さんとはどう、上手くいってるの」

「おかげさまで。実はね、その、結婚することになって」

「へえ、それはおめでとう。僕も嬉しい」

 雪は心から祝福した。

 そして一息つき、小首を傾げる。

「でも、そうなると今よりもっと二人で会いにくくなるね。旦那さんに勘違いさせちゃいけないし、僕だと尚更」

「椿木くんだと尚更? どうして?」

「どうしてって。椿木氷の弟だよ」

「あぁ……。椿木くんの口からそんな言葉は聞きたくなかったけど」

 若菜はため息をついた後、少しだけ苦笑した。

「椿木くんはしないの? 結婚」

 雪は、若菜のこういった、勇気があり思い切りが良いところに居心地の良さを感じていた。迷わずしないと答えると、理由を問うてきた。

「そうだね、相手が君だから答えるけど、」

「うん」

「これは持論だけど、僕にとって結婚っていうのは、この人の遺伝子を後世に残したい、この人に自分の遺伝子を託したいっていう気持ちからするものだと思ってるんだ。僕は、僕の死後まで僕の遺伝子を世界に残したいとは思わない。なぜって、それを氷が望んでないから」

 若菜は氷の名前を聞くと一瞬肩で反応したが、雪は構わず続けた。

「君は、氷が自殺した理由の一つに、氷も氷の遺伝子を後世に残したくなかったんだと考えたことはない? 僕は、氷はそうだったと思うんだ。だから結婚はしない。椿木の血に繁栄はもういらないんだと思う」

「ええと、それは……どうしてそう思うの?」

「椿木夏生が父親だからだよ」

「え?」

「椿木夏生の血を後世に残す必要はない」

 若菜は少々戸惑った様子だった。

「それは、確かに椿木夏生……あなた達のお父様は、少し人格に問題があったかもしれないけど。でも、人格や性格って、育っていく過程で変わるものだと思わない? 例え凶悪な犯罪者の娘息子だって、社会の中で正しく育っていけば、立派な人格者に育つ可能性はあるんじゃない?」

「そうかもしれないね」

 雪は微笑んだ。

 きっとこの女性は、霧中、反社会的人格を持った人物に理不尽に殺されても、崩壊していく世界の崖に立たされても、同じことを言うだろう。その、闇世の中にかすかにあるかもしれない一筋の光に縋るような、純粋で無粋な懸命さがいじらしかった。

 あの人は絶対にこうは言わないだろう。雪は胸の内で自身の兄を思う。

「僕達だって、母さんが生きていたら全く違っていたと思うよ。氷は間違いなく今も生きていただろうし、金髪もピアスも煙草もしていない状態で、本当に世界的なサッカー選手になっていたかもしれない。僕もそうだ。高校の時点からもっと偏差値の高い学校に通えていれば、今ここにいなかっただろうね。でもそうじゃないんだ。椿木の血を受け継いだ子どもがどう育とうと、遺伝子は残しちゃだめだ」

「どうしてそう思うの?」

「さっきも言ったじゃないか。氷が、望んでないからだよ」

 若菜は足を止めた。

「あなたの基準は椿木氷なんだね。今でも」

「今後も変わることはないよ」

「椿木くん、椿木先輩は神様じゃないんだよ。一人の人間なの」

「僕にとっては神も同然だよ」

「その考え方は危険じゃない?」

「そうだね、まあ、危険の中で生きていれば、危険な思想にも走るよね」

 雪は笑った。

 

 

 

  三  椿と桃

 

 

 待ち合わせた西麻布の喫茶店に着くと、白石櫻子はすでに窓際の隅の席に座ってはいたが、何も注文せずにスマートフォンをいじり、時折きょろきょろしながら、時折髪をいじりながら、随分と落ち着かない様子だった。雪はドアをくぐるなり少々立ち止まり、店内のどこにどのような人がいるかをさっと確認した。

 いつか会おうとは思っていたものの、目の前にすると感情が暴走してしまいそうな予感があり、これまで十年間ほど踏み切れずにいた。一種の恐怖もあった。しかし、いざ対面して彼女の目を真っ直ぐ見てみると、最初に目を反らしたのは向こう側であり、案外こちら側はどっしりとしていられた。なるほどと思う。雪は目でウェイターを呼び、彼女のためにとろりとあたたかいフォンダンショコラ一つとアイスティーを頼んだ。自分には平均的な値段のブレンドコーヒーを頼んだ。それらが運ばれてくるまで、二人とも押し黙ったまま身動き一つしなかった。

「僕のこと、ご存知ですか」

 静かに雪が問うと、櫻子は遠慮気味に頷いた。

「聞き方を間違えました。僕のこと、ご存知でしたか。あなたが氷と関わっていた頃」

 今度は櫻子は頷かなかった。なぜか随分と緊張しているようだったが、はて、雪の記憶上では高校生の頃の彼女はもっと堂々としていたように思えた。もっと背筋を伸ばし、もっと睫毛を上げ、もっと自信を身から溢れさせていた。つむじから爪の先まで手入れが行き届いていた。現在の彼女はその正反対だった。昔は美人だった雰囲気はあるものの、余分に苦労を背負っているかのような曇りを纏っている。

「まあ、ご存知なかったでしょうね。氷が僕のことをあなたに話すわけがない」

「氷に弟がいたことは、あの事件のニュースで初めて知りました」

 櫻子は雪崩のように話し出した。

「でも、氷のスマホをあなたが持っていたなんて、なんで、どうして早く言ってくれなかったんですか。あたし、すごい信じられなくて、だって氷ってそんなタイプだと思わなかったから、めっちゃラインしちゃってたし。どうしようと思って」

「落ち着いてください」

 雪はコーヒーを一口だけ啜り、相手に一呼吸置くよう促した。

 目の前の氷の元恋人が、氷の死後、何か良くない境遇に曝されていたことは容易に想像できた。彼女は不気味なほど挙動不審だった。他人の視線に脅えるように落ち着かなくキョロキョロしているうえ、ウェイターにまで驚いて身を引いていた。雪の観察眼が正しければ、彼女は男性に怯えているように思えた。

「聞いてもいいですか」

 櫻子が言う。

「氷は、あたしと付き合ってた時、あたしのことを本当に好きでいてくれてたでしょうか」

 突然会いたいと連絡を寄こしてきた弟の存在など構わず、彼女は自分の話をまず持ち出した。雪は愕然としたが、表情には出さない。

「氷が好きでもない女性と恋人関係になるとでも?」

 雪は丁寧にも微笑みまで見せてみたが、それでも櫻子は落ち着かない。

「や、あの、そういう意味じゃなくて。氷、一回もあたしを抱いてくれなかったから……理由はなんとなくわかるけど、その、あたしを振るための嘘だったんじゃないかなとか思って」

「嘘ではないです。あなたの想像はおそらく間違っていませんよ。氷はサディストです。暴力行為をしないと性的興奮を得られない人間でした。だからあなたの安全のことを思ってあなたに手は出さなかったんでしょう」

 直接的に「サディスト」などの単語を耳にすると、櫻子はビクッと身を縮めた。

「氷はいい彼氏だった。だけど、抱いてくれてたら、もっと良かったのになって」

「はあ。そうですか。僕からしてみれば、当時の立場がありながら氷の何にもなれなかったあなたのことは、心底軽蔑しています。僕があなただったら、法を犯してでも氷の望みをひとつ叶えました」

 櫻子はあまり雪の話を理解していないようだったが、雪は途中、彼女が肩を小さく震わせたのを見逃さなかった。

「氷の望み? わかんないけど、あたしは氷に一度でいいから愛されたかっただけで」

 セックスのことを「愛される」と表現する櫻子に、雪は思わず片眉を持ち上げた。しかし次の瞬間には落ち着きを取り戻し、静かに続けた。

「あなたは本当に何もわかってないんですね。もっと直接的な、砕いた表現をしないとわかりませんか。あなたは女性という性を持っていて、それだけでなく、氷と肉体関係を持つことができる近さにあった。それなのに――」

「あたしだってそれを望んでました! どれだけ、どれだけ望んだか」

 櫻子は勢い良く口を挟んできた。

 雪は大きくため息をついた。

「そんなに言うなら僕が犯しますか。あなたを」

 櫻子は案の定「犯す」という言葉に過敏になっていた。

「何言ってるの。あたしが好きだったのは氷だけだから」

「好きだからセックスするんですか? 好きだからセックスしたいんですか?」

「違うの?」

「じゃあ、生前に散々僕と性行為をしていた氷は、僕のことが好きだったんですか」

「は……?」

 沈黙が流れた。

 櫻子は目を白黒させる。

「どういうこと? な、なに?」

「僕は確かに氷とするのが好きだった。でも、氷のことを恋愛感情で好きだったのかと聞かれると、そうではない」

「は? 何言ってんの?」

 櫻子は憤慨し、身を乗り出して吠えた。

「し、信じられない。彼女だったあたしがしてもらえなかったのに、弟のあなたがそんなこと……兄弟で? 気持ち悪い。それに、好きじゃなかったの? 氷に抱かれておいて? 最悪、最低! あたしだったら絶対大切にしたのに! 大切な思い出にして、ずっと今でも氷のかわいい彼女でいれたのに! こんな、好きでも何でもない人にレイプされて、上司には毎日毎日セクハラされて、知らない人には痴漢されて! こんな、今、惨めな思いで生き続けなくて済んだのに……!」

「落ち着いていただけますか。あまり注目されたくないので。それに、あなたの言っていることは先ほどから結構、支離滅裂です」

 雪は気が滅入りそうだった。

 しかし、目の前でさめざめと泣き崩れる女性が惨めでないわけではなかった。一目見た瞬間から、なんとなく直感はしていた。

彼女も被害者なのだ。性暴力にあてられ、精神を病み、健康で健全な自立した心身を理不尽に奪われた経験がある者同士として、彼女の気持ちは痛いほどわかる。そして痛いほどわからない。

「氷が気軽に他人を抱けなかったことが理解できませんか。先ほども言いましたが、氷はサディストだったんです。暴力を振るわないと、相手が泣いて脅えていないと、性的興奮を感じられない体質だった。それを受け止めたのが僕だった。それだけです」

「あなたにできたなら、あたしにもできた」

 櫻子の真っ赤に泣き腫らした目が雪をきつく睨んだ。

「あたしだって、氷のためだったら、痛いのも怖いのも耐えられたのに」

 雪は観念した。

 鼻で深呼吸をし、静かに瞼を閉じて開く。

 凍てついた感情がぎしりと軋んだ音がした。

「そんな生半可な気持ちじゃないと言っているんです。僕は氷のためなら何だってできる。そうしろと言われたら、人を殺すことだってできる。そうしろと言われたら、彼が僕らの父親を殺しに行くのを止めないことも、氷の自殺を止めないことも、一人で生き続けることも、できる」

 白石櫻子は絶句していた。

 雪はゆっくりとカップを口に近付け、冷めきったそれを喉に流し込んだ。毒を飲み込む気分だった。いつだってそうだった。

 ここは地獄だ。今このテーブルに座っている二人には、癒えと正常なこころが必要だ。それでも僕たちの恐怖や、怒りや、悟りは、生涯なくなることはない。僕たちは毎日自分を責めながら、ぼろぼろのまま生きていかなくてはならない。僕たちの呪いはなかなか解けない。赦しが欲しい。天国に戻りたい。そちらもちゃんと地獄ですか、氷。

 

 その日以降、氷のスマートフォンは通知音を鳴らさなくなった。

 

 

 

  四  椿と菊冬至

 

 

「ああ、思いきや! すべては紛うかたなく、果たされた。おお光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで――生まれるべからざる人から生まれ、まじわるべからざる人とまじわり、殺すべからざる人を殺したと知れた、ひとりの男が!」

 

 誰かに言われた。死んだ兄が乗り移ったようだと。

 しかしそうではないのだ。口には出さぬがそう思っている。

 椿木家之墓と彫り込まれた墓石の前にしゃがみ、雪はこうべを垂れた。

 しばらくそうしていると、一切の音のしない墓地の片隅で、自分も死に埋もれてしまえるような気持ちになってきた。しかし雪は、凛と顔を上げた。

「氷、あなたはたしかにオイディプスだったけれど。あなたが盲目となっても、あなたの死を以ても、償えない罪は存在します」

 日は沈み、もう辺りはすっかり冷え切っていた。

 雪さえ降ってきたが、雪は寒さも感じない。

「氷、あなたが誰を殺したか知っています。あなたが誰を愛したか知っています。あなたが誰を尊敬し、誰を憐れみ、誰を恨んだか。そして誰を犯したか。知っています」

 氷の墓は何も話さない。

 春花も、夏生も、何も言わない。

 雪は氷だけに話しかけ続けた。

「それでも僕は、あなたの罪を背負い生きていく。

それが僕の幸せで、あなたの幸せならば。」

 雪は笑った。

 

 

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この作品は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

 

あらゆる暴力のすべての被害者に穏やかな保護が与えられ、

新たな椿木一家が生まれることが二度とないよう。