近年、SNS上ではたびたび「創作物と現実の区別について」が話題になる。しかし私が思うに、創作物に触れる我々が心しないといけないことは、現実と創作物は別物だと認識することではなく、現実の中に存在する創作物といかに向き合うかを考えることだ。創作物は当然現実ではないが、発表されれば誰かの現実になる。誰かの経験になる。
記憶に古くない事件だが、少女誘拐の報道に対しとある漫画のタイトルを挙げて「リアル○○じゃん」と冗談にするコメントが多く寄せられていた。類似案件は山ほどある。実際に起きた犯罪、事件、災害等、様々な事実をフィクションの名を使って矮小化したり良きものに修正したりする。
ともすれば人の倫理観を左右してしまうような危険物を、創作者達は日々生み出している。その事実を我々はもっと意識すべきなのだ。創作物が現実の人間に与える影響を甘く見てはいけない。
創作活動という趣味がこんなにリスキーだということを私はずっと気付いていなかった。あえて趣味と言うが、趣味で、こんなにも自分の価値観や人間性を赤の他人に向けてさらけ出すものが他にあるだろうか。
我々はあまりにも気軽にこの趣味に手を出すが、無意識のうちに自分の加害性を全世界に露呈して誰かを傷付けたり誰かの倫理観を歪めたりしたとき、私達作者は責任が取れるのだろうか。どう取るのだろうか。
こんなことを考えている創作者がほとんどいないことなど分かっている。皆、考えていないから気軽に創作活動などに手を出すのだ。インターネットに好きなアニメの二次創作漫画をアップしている人、一次創作作品を頒布し自分の思う世界に浸っている人。誰もが自分自身とは切り離したつもりの創作物を世に放ち、「私の中身はこんなです」と恥部を晒け出している。登場人物や設定を借りた二次創作だって、十分なほど作者の内部が反映されている。一次創作となればさらにだ。その事実に、大半の人間は無頓着でいる。
昔の私もそうだった。
「私は今、家族から暴力を受けていますが、あなたの作品の二人のように美しいものではないです」
「昔、虐待を受けていましたが、あなたの描く暴力は愛を感じられます」
読者にそんなことを言わせてしまった私は一体、どうすれば責任を取れるというのか。昔誤って「恋愛物」という括りで描いてしまった家庭内暴力が題材の作品を読んだ人達、幸運にも不運にもそれは多くの人達だったが、彼らに私はどうすればそうではないのだと訴えられるのだろう。今更。あの肯定されてはいけない暴力の話がもう過去の話になってしまった。
こうしてここで、誰が読んでくれるのか想定すらできない自己満足にまみれた文章を書いて、罪滅ぼしのように言い訳のように御託を並べることしかできない。あとはもう、今後の作品にどう向き合うかの話になってしまう。他人の経験や記憶を消すことなど不可能なのだから。
当然、文句のつけようがないほど素晴らしい倫理観の持ち主しか創作活動をしてはいけないと言っているわけではない。このリスクを自覚しているかしていないかだ。その差はあまりに大きいものだろう。ああどうかと常に思っている。今後の私の創作活動に幸あれ。