毒親育ちのフェミニスト

 

 いつかこれまでの私の物語を書きたいとは長らく思ってきたが、いざ執筆の体勢に入ると何から書き始めていいやら全くわからず、硬直した。

 私が物語を作りたいと思った動機のうち最も大きいものは、「父が暴力で母を殺してしまわないか廊下で聞き耳を立てながら凍えていたあの頃の記憶と感情をどうにか残したかった」という、祈りにも似たすがりつくような気持ちだった。書き残して何になるかわからない。しかし書かないとだめだと思った。あの情景を、この感情を、全く知らない人が世の中にはたくさんいるからだ。もちろん、そんな光景や感情は知らない人が少ないほうが良い。しかし、この身をもって知っている私が書かないと、誰かが父の再来になってしまうと思った。それによって、過去の私が感じていたような重圧を抱えながら生きていかねばならない子どもや女性が、また生まれてしまう。

 現実はきっと、家庭内暴力の当事者、ましてや加害者はこんな文章などじっくり読んでくれないだろう。そして昔の私と同じように過去に暴力の被害に苦しみ悩んでいた被害者には、フラッシュバックや二次被害の恐れがある。私の書く文章によって再びあの暗闇に放り出されるなんてことは、私が最も望んでいない。

 それでも書きたいと思った。暗闇から光のある世界へ抜け出した経験者として、メッセージを発信したいと思った。

 これは私にしかできないことだ。私も参加したい。近年、家庭内暴力のみでなく様々な形で――例えばセクシャルハラスメント等の性暴力や、パワーハラスメント、教員による生徒への体罰など――暴力が社会的問題として取り上げられる機会は増えてきたとは感じるが、依然として、加害と被害の構図が成り立つ場面で被害者が声を上げることは難しい。非常に難しい。声を上げること自体にも勇気はいるし(勘違いしてほしくないのは、声は上げなくてはいけないものではない)、声を上げたことで罵倒されたり虚偽発言だと決めつけられたりする。そんな現場を幾度も見てきた。だからこそ声を上げられる私が声を上げねばならない。声を上げる人の数を少しでも増やさないといけない。

 余談だが、以前家庭内暴力と歪んだ愛情をテーマに漫画を描いていたときに、読者の方から「私も今、親から虐待されていますが、あなたの描く物語のように美しいものではありません」との内容のメールを受け取ったことがある。家庭内暴力はどんな形だろうと美しくなどない。私の描く暴力は、この方の目に美しく写っていたのかと絶望した。もうその物語を描くのを辞めようと思ったきっかけのひとつだった。現実と創作物を重ねてはいけない。私の作る創作物で、現実の誰かの認識を歪めたり現実の悪を助長したくなどない。それだけは絶対に嫌なのだ。

 私は、絶対に家庭内暴力を許さない。差別を許さない。

 暴力のない家庭はどんなものなのだろう。身体的にも、精神的にも、誰にも何にも侵害されない家庭とは。子どもや女性が(当然、男性も)一人の人間として扱われ、尊重される家族とは。

 幸い、私は父からの暴力で肉体が死亡することはなかったし、社会復帰が難しいほど精神的に病むこともなかった。しかし、子どもの頃は自覚できなかった影響の数々は成人後の今でも私を苦しめることがある。私自身のみでなく、私の周囲にまで影響を及ぼしている。

 少しずつになると思うが、私が私の家庭で育ち経験し思考してきたこと、そして暗闇から抜け出した具体的な話、自分の中のアダルトチルドレンと闘いながら幸せに生きている今のことなど、題名の通り私が「毒親育ちのフェミニスト」として伝えたいことを伝えるため、書きたいことを書くため、これらに関する執筆をエッセイとして綴っていきたいと思う。

 誰かの道標になれたらいい。誰かの救いになれたらいい。そう願っている。

 次に書くものは、実際に私が父親に宛てて書き、送った文章だ。今は絶縁している。

 

 

 

 思い出せることを書いていこうと思います。

 小学生の頃、アイドルになりたいと夢を打ち明けたら頭ごなしにやめろと言われ、それ以降あなたに本音を言うのが怖くなりました。髪を引っ張る癖が直らないからという理由で強制的にバリカンで短髪にされ、深く深く傷つきました。その短髪に合わせて男性の洋服を着て、男性のようにふるまっていました。女性用の服を着たいのに、かわいいものを身につけたいのに、無理に男性の格好をしていました。自我が壊れていくのを感じました。何かで怒らせてしまったとき、水が苦手だったのにお風呂場で頭からシャワーをかけられ、命の危険を感じて居間まで走って逃げました。恐怖でした。成績が下がると長時間説教をされ、苦痛でした。「どう思ってるんだ」と言われ、どう思っているのか正直に話すと、叩かれたり長時間に及び話を聞かされたりしました。あなたが私の頭を掴んで壁にぶつけたとき、リビングの壁がへこみました、後日それを冗談にして笑っていたのを見たとき、その時は咄嗟に合わせて私も笑ってみせましたが、吐き気を感じたのを覚えています。「動物を躾けるときに暴力をふるうことがあるように、子どもの躾けにも暴力は必要」というあなたの発言を、今でも思い出しては手が震えます。意見も言わせてくれない、言うと否定されたり抑えつけられたりするのがわかっているので何も言えない、言う気にならない。鬱憤だけが溜まる日々でした。

 子どもが遊ぶことへの寛容さも、感じられたことはありませんでした。その時に流行していた遊びをしたいと言うと、馬鹿にされ、受験に向けて勉強をしろと言われました。好きな友人や当時恋してた子まで馬鹿にされ、悲しくなりました。中学受験、高校受験、大学受験、全てにおいて、私は全力を尽くして勉強をしたことがありません。いつも私の意思を聞く前に「この状況だとこの学校に行けば最も良い」とはなから決断され、強制されて勉強していたからです。テレビを見ていると、今でも「勉強しなきゃ」と罪悪感を感じます。勉強しているか監視するために部屋の扉はいつでも開けておくように命令されてから、私の部屋は階段を上がった目の前に位置していたため、誰かが二階に来るたびに視線を感じ、ひとときも落ち着けませんでした。扉を閉められるタイミングを見つけても、ノックのあと間髪入れずドアを開けて入って来られるため、自分の部屋にいても気を抜くことができませんでした。たまに勝手に机の引き出しの中を見られていたことに気付く瞬間もありました。自宅にいてもプライバシーの侵害を感じ、非常に息苦しい日々でした。

 将来のために勉強をして良い学校へ進学すれば、職業などの選択肢が広がる。理屈は理解しています。当時も理解していました。しかし、一度でも「将来何をしたい?」と聞いてくれたことがあったでしょうか。話を聞いて、人生の先輩として助言をしてくれたことがあったでしょうか。理想の娘像をぶつけず、私を一人の人間として対等に扱い、意見を尊重してくれたことがあったでしょうか。意見を言ってくれればよかったと、なぜ言わなかったのかと、あなたは言うでしょうか。答えは簡単です。恐怖と諦めに支配され、言えなかったのです。もしくは、言ったけれどあなたに抑えつけられ、なかったことにされたのです。あなたは覚えていないでしょうけれど。

 高校時代は、地元の同級生達のことを心の中で見下して馬鹿にしながら暮らしていました。今思うと、その時あなたに望まれていた成果を出せたことにより自分が優れていると思い込み、排他的な思考に洗脳されていたなと思います。少し偏差値の良い学校に合格したからといって、人間的に勝っているわけではありません。人はみな平等です。優劣はありません。しかし、それに気付けず、完全に「ここにいる人達は私以外みんな馬鹿」と思い込んでいた私は、それ以降、どんどん醜い心を育てていくことになってしまいました。

 母の浮気が発覚して以降、あなたの暴力行為がエスカレートしていきました。宅浪時代や大学時代、私は自分の部屋で勉強をしながらいつも下の階に意識を向け、大きな物音や母の泣き声が聞こえてきやしないか脅えていました。あなたは弟達には何も話さず、いつも「一番上だから」「年齢も高いから」と私だけに事情を話していましたが、そのせいで「大事になる前に私が間に入って止めなきゃ」「お母さんに何かある前に私がお父さんを止めなきゃ」「弟達に危害が及ばないようにしなきゃ」と、常に重荷を抱えていました。原因が何だったにしろ、両親の暴力沙汰を見ながら育って健康に生きていけるはずがありません。集中して勉強をしたり気を抜いて趣味ができたりしたのは、いつも深夜2時以降、両親が寝静まってからでした。そのせいで毎朝遅くに起きる生活を送っていましたが、それすらも「だらしがない」「もっと活気のある生活をしろ」と責められ、私の心はやさぐれていきました。

 誰にも本音を言えず、相談もできず、しかし一人で弟や母を守らなければならない。鬱状態でした。その時も、一度だけあなたに「鬱状態かもしれない」とこぼしたことがありましたが、「そんなわけない。(自分も経験しているので)鬱はそんなに軽いものではない」と一蹴されてしまいました。絶望しました。親にも弱音を吐けない私は、もう誰にも助けてもらえないんだと確信した瞬間でした。当時は自殺も考えました。しかし、弟達のことを思うとできませんでした。

 部屋にこもりながら、私はインターネットを使い趣味に打ち込んだり、SNSで匿名を使い本音をぶちまけたりしました。当時の私にインターネット環境がなかったらと思うとぞっとします。削りに削られていた自尊心や自信は、趣味の世界である程度認められ、仕事として少しお金をもらっていたことなどで、なんとか取り戻していきました。その世界にいる間は、私は生きていてもいいんだと感じられるようになりました。その仕事のことをあなたに話したときにも、馬鹿にされ否定されましたが。その時は怒りを感じ、同時に悲しくなりました。私にとって価値のあることでも、あなたのほうで価値を感じられないと認めず拒絶するのだと、多様性を認めない姿勢に尊敬が持てなくなりました。

 就職の時期にも、私がどのような職業を望んでいるか聞く前に「お前の顔じゃ民間は受からない」と言われ、深く傷つきました。客観的なアドバイスをしたつもりだったのでしょうが、傷つきました。今でも人から外見を褒められても「本心じゃないくせに」「裏で何かたくらんでいるのか」と無駄に勘繰ってしまい、素直に喜べません。夫からの愛情ですら、疑ってしまいます。誠実で真面目な夫は何も悪くないというのに。就職が決まってから変わりたいと思い容姿を磨くためダイエットをしていたときも、私が努力で痩せたことを「メイクの力で変わった」と言われ、努力を踏みにじられた思いでした。宅浪時代には「太ってる」「妊娠してるみたいな体型だ」、痩せれば「それ以上やめとけ」、私が自分で決めた行動をいちいち否定され、無気力に、自暴自棄になる日もありました。結局、あなたの思う通りの私でないと否定されるのだと確信しました。私の人生は一体誰のものなのでしょうか。

 家の金銭面に関する状況や、あなたの出身や体調面に関することも、弟達には話さず私にだけ話していましたが、それは私に対し「こんなに家計がきついのはお前らを養わなきゃならないせいだ」「こんなに自分の体がきついのはお前らを養うために自分だけが仕事をしているせいだ」と言っているようにしか感じられませんでした。奨学金の話、家のローンの話、親戚の葬儀の経費の話。そういった家計が苦しい話を、なぜ子どもである私に延々としなければならなかったのでしょうか。散々金銭面が大変だと説明したあと、「心配しなくていいから」。気を遣えと命令されている気持ちでした。今でも私は、お金を使うことに強い罪悪感を感じながら生きています。自分で稼いだお金さえも誰かの許しがないと使っていいような気持ちになれず、ただただ苦しいのです。それなのに、私が就職してからは何度も「お金を貸してくれ」と連絡をしてきましたね。私が断ったら次は弟に話がいくだろうと想像すると、貸さないという判断はできませんでした。

 あなたの兄は明らかにサイコパスでした。彼は今はどこで何をしているのでしょうか。彼が警察沙汰になったとき、彼の妻と娘を家庭内暴力から保護する際に弁護士にお願いすることになったとき、彼から学ぶことはできませんでしたか。そしてあなたの姉の夫が株に夢中になり自殺したとき、あなたは「あの家のようにならないように」「金は人を変える」と確かに言っていたのに、彼らから学ぶことはできませんでしたか。あなたの生い立ちには同情します。常識と分別のない両親の話や、壮絶な過去の逸話も何度も聞いたので、覚えています。しかし、だからこそ、それを繰り返してはならないとあなたが一番わかっていたのではないでしょうか。

 責め抜くような長時間の説教のあとには、いつも私を大切に思っているなどの言葉をかけてくれましたね。今、冷静に思い返すと、非常に巧妙な心理操作テクニックだったと思います。「こうしないならバイトをやめろ」「こうしないなら家を出ていけ」と脅し、時には暴力をふるい、「私の将来を思って」強制的に道を正したあと、愛しているからと伝える。子どもはあっさりマインドコントロールされてしまいます。これが正しい道なのだと信じ込んでしまいます。あなたにとっては正しい道だったかもしれません。しかし、それを私の本心は望んでいたでしょうか。よく私のことを反抗する子だと、気の強い子だと言っていましたね。それはただの「反抗」だったのでしょうか。

 就職後、私は勝手に実家を出てのちに夫になる人の家へ逃げ込みましたが、それ以後もなにかと指図命令してきましたね。月に二、三回は帰って来い。お盆などの行事を大切にしろ。家族を蔑ろにするな、家出娘め。社会を生きるうえで守るべき大切なことだと、その言い分はわかります。しかし、もう今の私には、あなたの言う全てが私への強制的な命令や脅しにしか聞こえず、言うことを聞かないと殴られるのではないか、母や弟達を殺すのではないかと、恐怖を覚えます。連絡がくるたびに胸が締め付けられるように痛くなります。非常に耐え難い気持ちです。母や弟や祖父母まで嫌いになりたくありません。もう、無理です。

 これらの私の子ども時代の精神的な不安定さや、今にも残るアダルトチルドレンらしさが、全てあなたのせいだとは思いません。しかし、あまりにも大きな影響を与えられたことは事実だと認めざるを得ません。

 私にとって実家は、全く心安らぐ場所ではありませんでした。そこにいたときは常に緊張し、警戒し、ふさぎ込んでいました。父の機嫌を窺いながら、明るい娘のように振る舞うことが当然になっていました。子どもは大人の機嫌を崩さぬよういつも気を遣っていないといけないものなのかと思っていましたが、どうやらそれは違うようですね。そういった発見がたくさんありました。きっとこれからもあるのでしょう。就職し、社会を生きる他の大人たちと関わり、実家を勝手に出て行ってから、私は自分の呪縛がどんどん解けていくのを感じました。自分の実家は正常だということに疑問を抱き始めてから、書籍を読んだり専門家に相談したりして勉強し、疑問が事実だったことを確信しました。実家のことを思い出すと重い動悸がし、父親のことを話すと言葉が詰まり、不本意にも感情的になり、勝手に涙が出ます。楽しかった思い出もあるはずなのに、もう苦痛以外思い出せません。

 あなたが父親であること、義理の父親であること、家族であったこと、全てひっくるめて、一人の人間として、これ以上付き合っていくことが難しいと感じています。今まで、人生をかけて、今度も穏やかに関係を続けていけるよう努力し続けてきました。歩み寄ろうと努力し続けてきました。しかし、限界を静かに確信しています。あなたに向き合う体力が、私にはもうありません。親からいただいたこの命。私は私自身の健康と幸せに責任を持っていますので、私を壊されるような危険からは身を引かせていただきます。

 今はただあなたに「早く解放されてほしい」と思っています。たくさんの「~すべき」という呪縛から、私の親という責務から、早く解放されてください。母の連れ子だった私を育ててくれたことは感謝しています。しかし、もう会えません。あなたはあなたのためにあなたの人生を歩んでください。私は今晴れ晴れとした気持ちで日々を過ごしており、とても幸せです。私のことは忘れ、幸せになってください。どうかお元気で。

 

 

 

 先に掲載したものを読んでもらえれば、私がどのような未成年時代を過ごしてきたか大体想像してもらえると思う。

 家族構成等を少し詳細に述べると、私は生まれ、二、三歳のときに両親が離婚した。母が私を引き取ってくれたのだが、しばらくして母は再婚した。その相手が私の義理の父親、育ての父親だ。義父は、母の連れ子である幼い私と、その当時多額の借金を抱えていた母の両親(私からすれば祖父母)と共に暮らし始めた。後に弟が二人生まれ、結構大所帯な家族になった。正確に言うと「弟」は「義理の弟」なのだが、私は脳内でも脳外でも彼らを一度も「義理の弟」と表現したことがないので、ここでも「弟」と書き表す。未成年の私が唯一自分の命よりも大切に、愛おしく思っていたのは、弟達のみだった。

 血の繋がった父親のことは、私は全く覚えていない。名前すら知らない。昔、母から「パソコンなどにお金をつぎ込むだらしない人だった」、「こんな夫じゃ娘を育てられないと思ったから離婚した」とは聞いたことがある。私の中にそれ以上の情報はない。そもそも興味がない。

 先に、弟達のことを義理の弟だと思ったことがないと書いたが、それは義父に対しても同じだった。物心ついた頃から私のお父さんは彼だったので、父親はと聞かれたら義父以外の顔が浮かばない。昔は義父から様々な虐待を受けるたび「まあでもこの人とは血繋がってないしな。本当の親じゃなくてよかった」と心の中で考え、現実逃避する術も身につけていたものだ。高校生の頃だったか、義父本人から私が母の連子であることを告げられたとき、なんとまず安心し次の瞬間には非常に嬉しかったのを覚えている。

 ――この人は私の本当のお父さんじゃなかったんだ、よかった!

 

 未成年時代の大半を過ごした田舎では、片親育ちだったり義理の親に育てられていたりする環境はそこまで珍しくなかった。それなので私は、ずっと「何も問題のない平和な家族ってないものなんだなあ」とぼんやり思いつつ中学時代まで過ごしたのだが、高校生になり県外に出て、故郷より住みやすい雰囲気の街で暮らす友人と知り合った時、初めて私のような存在こそが稀有で、普通の家族は普通にあることを知った。

 外の世界を知らないと自覚できないことはたくさんある。普通の家族を知らないと、比較対象のない視界では自分の家族がスタンダードだと思うのは自然だ。

 自分の両親はちょっと教育ママパパっぽいなあ、厳しいなあ、くらいにしか思っていなかった幼い私は、成長するにつれ、自分の家族の異常さに気付いていった。

 どうやら「普通の家族」では、父は子を殴らないらしい。母は奴隷ではないらしい。子は親の機嫌を気にして過ごさなくていいらしい。子は自分の希望を自由に表現できるらしい。子は親の言うことを聞かなくても、夕方から日付が変わるまで説教されたり、「家を出ていけ」と命令されたりしないらしい。

 

 個人的に確信に近くずっと強く思っていることがある。それは、子にとって両親の暴力沙汰を見ることほど辛い経験はない、という点だ。実はこれも列記とした虐待の一つだ。一般的に面前DVと称される心理的虐待で、近年児童相談所に通告される件数も急増している(参照:男女共同参画「DV(ドメスティック・バイオレンス)と児童虐待 ―DVは子どもの心も壊すもの―」)。これは子どもにとって精神的ダメージがあまりにも大きすぎる。両親の怒鳴り声は子どもの脳に悪影響が出るという研究すらある。

 私は、私自身が直接的な暴力に晒されるよりも間接的に暴力を見る機会のほうが多かったが、後者の経験は本当に甚大な被害を私の精神に与えてきた。

 その光景は今でも鮮明に覚えている。義父に髪を引っ張られる母。義父に無理矢理アルコールを飲まされるお酒が苦手な母。義父に説教をされながら手の甲をつねられる母。義父に目の前で携帯電話を真っ二つに折られる母。義父にバリカンで髪を切られる母。義父に好きなアーティストのCDを取り上げられる母。義父に化粧品を捨てられる母……。

 耳に蘇るのは母の泣き声と、なじるように話す義父の低い声だ。母が死んだらどうしようと両親の部屋の壁に耳をつけ息を殺していた。自分の心臓の音が一番うるさかった。どうしようもなく震える自分の手を自分で握っていた。

 私が認識したものはおそらく、氷山の一角に過ぎないのだろう。母は、自営業の義父を手伝う形で日中を過ごしていたので、一日中義父と一緒にいることになる。両親が仕事場にいる間や私が自宅を離れている間は、当然両親の間で何がどう行われているのか把握はできないので、買い物袋片手に玄関を開ける母におかえりと声をかけたり、台所で夕飯を作る母の後ろ姿にただいまと声をかけたりするたび、私は安心していた。母が今日も生きている、と。

 私にとって、実家はリラックスできるあたたかな心安らぐ場所ではなかった。そこにいた時間は常に緊張し、仮面をかぶっていた。

 

 私は血の繋がりに何か強い価値があるとは思わない。だから「家族だから」という理由だけで何かをしなくてはならないことは基本的にないと考えている。帰省したくないのであればしなくていい。人として合わないのであれば距離を置いていい。家族という立派な名称がついていようと、しょせん他人なのだ。あなたの家族はあなたのクローンでも分身でもない。あなたとは別の感情と人権を持った全く別の個体、他人だ。

 私の実家、特に義父は、この意識が極端に抜け落ちていたと感じる。家族を自分の所有物だと思っているような言動が目立っていた。健康で健全な家族は、家族だろうと相手を一人の人間として尊重するもののはずだ。

 そして血の繋がりに強い価値があると思っていないのと同時に、血の繋がりだけが家族形成の要因だとも思っていない。繰り返しになるが、私と弟達は血の繋がりで見ると母親だけを共有している義理のきょうだいだ。だが、私は彼らを本当の弟同然に大切に愛おしく思っており、彼らへの感情だけは絶対に純粋な家族愛だと明言できる。

 こちらは良い意味ではないが、義父に対しても同様だ。私は血の繋がった父親と街ですれ違っても気が付かないだろう。しかし、「あなたのお父さんは、」などと人から話を振られると、まず育ての父親の顔が脳に浮かぶ。血の繋がっていないほうを家族だと認識している。なぜか。家族として過ごした時間が長いからだ。血の繋がりなどなくても家族になることはできる。

 

 結び付くほうだけでなく、離れるほうも見ていこう。日本社会は、家族という枷に動きを封じられている人々が大人にも子どもにも多いように思う。我慢して家族との関係を近しいものにしている人が非常に多い。

 そんな中、最近は、事情があって養育が困難な子どもを引き取り、養子縁組をする親達も増えた。日本の民法上では、家庭裁判所から決定を受ければ「特別養子縁組」という養子縁組ができ、子どもの実の両親との親族関係を戸籍上抹消することもできる。

 自分自身の精神を削り、自分自身の幸せと健康を犠牲にしてまで無理やり家族と付き合う必要など全くないのだ。子どもは守られる。子どもは、守られなくてはならない。そして大人は、自分自身の幸せと健康に責任を持たねばならない。自分を守るため、自分を危険から少しでも遠くへ移動させなければならない。

 

 現在、私は実家とは絶縁し、夫と二人で暮らしている。自分で子を産むつもりは全くないが、世界中の子どもに、私のような未成年時代を絶対に絶対に過ごしてほしくないと願っている。どうか世界中の子ども達がみな、仲の良い両親から愛され幸せで健康な心身で育ちますように。

 次では、被害者であり加害者でもある私の母の話をしよう。

 

 

 

 だから若い娘たちに言いたいのは、親とちゃんとした大人の関係を作るためには、母が強者のうちに対決しなさいということね。(朝日新聞 「人生の贈りものわたしの半生 」 )

 

 これは東京大学名誉教授、フェミニストとしても有名な上野千鶴子先生の言葉である。私は文春文庫『上野千鶴子のサバイバル語録』から引用した。

 母のことを思うと、私も強者の母と対決をしたかったしすべきだったと思うが、私の目から見た母は常に弱っていた。加害者であり被害者である母。彼女の話をしよう。

 私の母は、「女性としてのたしなみ」を教える女子大学出身で、都内で働くごく普通のとても綺麗な女性だった。母がいつから弱ったような雰囲気になってしまったのか定かではないが、私の記憶だと、私達子どもがある程度育った頃からのような気がしている。少なくとも母が東京にいた独身時代の写真や、私が幼稚園児だった頃の写真では、化粧をし好きな服を着た母がひとりの人間として堂々と笑っていたのだ。

 

 私の実家は絵に描いたような家父長制で、母含め家族の誰もが常に義父の機嫌を窺っていた。

 義父の暴力が最も過激だったのは、母の浮気が発覚してから以後数年だった。私はちょうど浪人生、そして大学生だった。浪人時代は、予備校等には通わず自宅で勉強をするいわゆる宅浪生だったので、実家の中で起こっていることが二十四時間筒抜け状態だった。

 実は私は、母が浮気をし始めた頃からずっとそれを支援していた。母が浮気をした理由を知っていたからだ。母は義父に恐怖していた。家族を人扱いしない義父、自分の妻を奴隷扱いする義父に疲労困憊し、恐怖していた。私達子どものために離婚に踏み出せないことも理解していた。そんな中出会った優しい男性に気を許し、親しい関係になってしまった。許されることでは当然ないが、同情は心の底からしていた。

 私は常に母の味方だった。かわいそうで仕方なかったし、ひとりの人間として母を愛していたからだ。そして義父に脅える身として境遇が同じだったため、私達には連帯感すらあった。そのため、母がおそらく浮気をしていると勘付いたときには黙っていたし、浮気相手と連絡した跡を抹消する手伝いもしたし、母の帰宅後、停めた車の中で浮気相手と電話をしている様子も見て見ぬふりをしていた。

 浮気をしていた時期、母はよく笑った。台所ですすり泣くこともなくなった。なぜか犬の人形を非常に可愛がるようになり、その人形に帽子をかぶせたりサングラスをかけたり可笑しなポーズをさせたりして、毎日楽しそうに写真を撮っていた。

 浮気が義父に発覚してからは地獄だった。当然だった。母にとっても地獄だっただろうが、娘の私にとっても地獄だった。義父の暴力は目に見えてヒートアップしていき、物理的にも精神的にも母への攻撃が激化していった。義父は母の携帯電話を彼女の目の前で真っ二つに折り、浮気相手には直接連絡し関係を絶たせ、お金を持たせてもらえず、「女っ気あることをするな」と母の髪を切り化粧品の全てを捨て服を取り上げた。母は一気にみすぼらしくなった。白髪交じりの短髪で(義父の許しがないと髪も染められない)、メイクも一切できない、美人だった顔は窶れ、いつも薄汚れたよくわからないワンピースを着ていた。私はそんな母を見ているのが言葉にできないほど辛かった(これを書いている今も泣きそうになる)。かつての写真ではあんなに生き生きしていた女性が、人間としての尊厳を奪われてしまった。

 母の新しい携帯電話は、毎晩義父に電話の履歴やメールの内容を確認された。私は、親戚や友人にその時の状況について相談をし、助けを求めていた母のメールを送信済みボックスから削除する作業を手伝った。「またお父さんに何かされたら言ってね」と、その頃は毎日母に言っていた。

 夜には毎晩のように母の泣き声を聞いた。義父と母の部屋は私の部屋の隣に位置していたため、よく聞こえた。さすがに母の死を予感した時には、扉を開けて割って入ったこともある。そこに広がっていた光景こそ、私にとっての地獄だった。

 ――その光景は今でも鮮明に覚えている。義父に髪を引っ張られる母。義父に無理矢理アルコールを飲まされるお酒が苦手な母。義父に説教をされながら手の甲をつねられる母。義父に目の前で携帯電話を真っ二つに折られる母。義父にバリカンで髪を切られる母。義父に好きなアーティストのCDを取り上げられる母。義父に化粧品を捨てられる母……。

 耳に蘇るのは母の泣き声と、なじるように話す義父の低い声だ。母が死んだらどうしようと両親の部屋の壁に耳をつけ息を殺していた。自分の心臓の音が一番うるさかった。どうしようもなく震える自分の手を自分で握っていた。(前述より引用)

 何度も母に義父との離婚を勧めたが、弟達がまだ大学生にもなっていなかったり、祖父母と祖父母の借金を抱えてもらった恩によって、今でもその決断には至っていない。

 離婚はともかく、義父にそこまでされてなぜ抵抗しないのかと訝る人もいるかもしれない。なぜしない、いやできないか、理由は簡単だ。反抗すれば殺されるかもしれないと思っているからだ。

 母は、あの家族の中にいて幸せを感じていたのだろうか。母は、義父と再婚して本当に良かったのだろうか。

 

 ここまでは完全に被害者だった母だが、では、私がなぜ最初に母を「加害者であり被害者」と表現したのか、理由を書こう。母は、義父の暴力を前にいつも「いい子にしていれば早く終わるから大人しくしていなさい」「あなたが”お父さんお仕事お疲れ様”って言えば機嫌よくなるから言いなさい」「今言うことを聞いていれば大事にならないから、いい加減学びなさい。そうすれば早くこの家から出ていけるから」と、私に言った。私自身も、その場にいた頃は「確かにそうだな」と思っていた。私は負けん気の強い馬鹿正直な性格なので義父の前でつい本音を言ってしまうことがあっても、落ち着けば母の言うことを聞いて素直なふりで謝り、義父の機嫌を取っていた。それが賢い生き方だと思っていた。

 しかし今ならわかる。それは間違いだった。これも一種の加害なのだ。加害された被害者の声を塞ぐ被害者による加害。恐ろしい相図。

 なぜ義父のために気を遣って褒めおだて"いい子"を演じなければならない? これは、男社会の中で生き延びるため、男性を持ち上げ媚び諂い、男性の味方のポーズを取る"名誉男性"な女性の姿に非常に似ている。構図は同じだ。

 

 家出後も続いた過干渉に耐え切れず「距離を置かせてくれ」と言った私に、義父は「なら絶縁だ」と言った。私はその時はそこまでする気はなかったが(距離を置いて年月が過ぎ義父も歳を取れば、もしかしたら、もしかしたら上手く付き合っていけるのではないかと一抹の期待を信じるつもりだった)、そちらから言われれば願ったり叶ったりだった。了承した。

 その週末、母は話したいことがあると言って私の元へひとりで訪れた。味方でいてくれると思った。やっと自由になれるねと言ってくれるのではと思っていた。しかし、その口から出てきた言葉はあの頃から何も成長していなかった。

「今我慢して付き合っていけば、いつか離れられるから。大人になりなさい」

 私は絶望した。

 人としてもうこれ以上付き合えない、親としても全く尊敬できない、これ以上義父の近くにいたら精神を病んでしまうと、私が号泣して必死に訴えた苦痛の叫びは、母の前ではただの生意気な娘の我儘でしかなかったのだ。もう無理と訴えてもまだ我慢しなさいと言ってくる、目の前の被害者が信じられなかった。このままでは何も進まない、何も変化しない、母自身も苦しいままだよと言っても、聞いてはくれなかった。

 先に掲載した文章を母へ送り、義父と共に読んでもらったあと、母は電話で「義父は暴力など振るっていない。虐待なんて全部あなたの嘘。あなたはここに書いてあるような辛さなど感じていない」と言った。まさか、私が半生経験してきた事実をまるまる否定され、さらには他人に私個人の感情を否定されるとは思わなかった。いつの間にか、絶縁の提案は私からしたことになっており、私は全く身に覚えがない発言や行動をしたことになっていた。こちらが何を言っても一切聞く耳を持たなかった。

 私は実家を出てから、書籍を読んだり専門家に相談したり講演に参加したりして、毒親や児童虐待などについて勉強をしてきた。インターネットでも調べ、他の方の苦しんだ経験を読んだり、インタビューしたりもしたが、正直「うちの親はここまで酷くないな」と思っていた。だが、そんな認識はこの瞬間から皆無になった。よく見た"毒親は話が通じない"とはこの事かと、ついに実体験として理解してしまった。

 両親との付き合いの中で最も衝撃を受けたのが、この、義父の暴力や私の感情を嘘と言い切る母の言葉だった。

 お母さん、一緒に悩んできたお父さんのこと、全て忘れてしまったの? お母さんが受けた暴力、私達が受けた暴力、私は一生忘れられないけれど、忘れてしまったの? あんなに相談して、協力して、二人でやってきたのに。お父さんに耐え切れず浮気をしたお母さんに同情し、協力してきた私は、一体何だったの?

 

 母のことをかわいそうだと思っている。私はこうして義父の呪いから解き放たれ、目が覚めてこんな文章を真顔で書いていられるが、母の目が覚めるのは、父が死んだときなのではないかと思っている。

 私が母の目を覚ましてあげたかった。真正面から母と対決し、二人で目を覚まして二人で自由になりたかった。母のことは今でも諦め切れない。過度な家父長制秩序の犠牲になったひとりの女性を、私は今でもどうにかして助けたいと願っている。

 

 

 続く